「えぇぇぇ！エル兄ちゃん、旅に行っちゃうの？」
「何だよ、エル兄！もっとずっといるって言ってたじゃんッ」
「非道いよ、お兄ちゃん！もっともっと遊んでくれるっていう約束でしょー」
三人組の盛大な非難の声が、青空に響く。
「ふっ、風が俺を呼んでるのさ」
「うあ」
「かっこ悪」
「へたれ」
爽やかな風を身にまとって、エルヴィンは言ったつもりだったが、このお子様たちには高度すぎて少々理解しがたかったようだ。
「はっはっは、大人になればわかるさ、少年少女」
「エル兄は大人違うだろ」
「お子様〜」
「ヘタしたらわたしたちよりお子様〜」
ぐっ、最後の最後までこの子達は俺の心を蹂躙しやがってくれます。
でも、でも！
そんな彼らをビビらせる脅威の最終兵器がここに！
エルヴィンは邪に笑った。
「ふふん、まぁ、んまぁ落ち着け、少年少女。そして、これを見れ！さぁ！さぁ！」
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・」
エルヴィンの手にあるもの。
一つ、ブローチ（粘土製レプリカ）
一つ、カード（ポリンカード）
一つ、カード（ポポリンカード）
「どうだ、驚いて声も出まい！」
「・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・」
確かに出ない。
「ん、ほれ。遠慮せずに、さぁ！」
そう言って、ブローチをエリーの手に渡す。
「あ、ありがとう、お兄ちゃん」
ポリンカードをジャンに渡す。
「う、ありがとう」
ポポリンカードをペリンに手渡す。
「あ、ははは。ありがとう・・・」
苦笑いが三人から漏れる。
「はっはっは、さぁ、もっと喜べ！感謝感激雨霰嵐台風大雪雪崩！そして、このお兄さんを敬い崇め奉り讃えるがいいさ！」
「え、エル兄ちゃんが壊れたー」
「きょ、今日のエル兄、何か変だぞー」
「クレアおかあさーん、お兄ちゃんが何処かに逝っちゃったよーー」
一斉に三人組はクレアの元へと駆け寄る。
「あらあら。あなたたちが虐めすぎちゃったからかしらね〜」
穏やかにクレアは笑った。
「それだけはチガウね」
「わたしたちはちゃんと手加減してるもん」
「エル兄ちゃんが勝手に壊れたんだい」
ぷーと膨れる三人組。
「もう、エルもエルよ。・・・・そんなはしゃいで」
「んー、シスター。気にするな〜」
明るかった。
いつにもまして、エルヴィンは明るかった。
眩しすぎて、心が見えないくらいに。
突然。
まさに突然。
晴天の霹靂とはこういうことを言うのだろうか。
あの子は、一晩帰ってこなかったと思ったら、今日の昼に突然戻ってきて、明日旅に出る、と言い出した。
理由は、風が呼んでるから。
露骨に嘘だ。
長年共に暮らしてきたシスター・クレアにはそれがよくわかる。
止められるのか。
果たして、自分に、あの子が止められるのか。
とりあえず、明日はやめて準備もあるんだから明後日にしなさいと言ったが。
何か、とんでもない事をしでかそうとしている気がしてならない。
「どうしたの、おかあさん？」
きょとんとした顔でエリーが服の裾を摘んでいる。
「あ、なんでもないの。よし、エリー、そのブローチつけてみよう」
「うんッ」
大きく頷いたエリーは早速ブローチ（粘土製）をつけてみる。
「お、似合うぞ〜」
「ホント？」
「うん、だから、ほら。お兄ちゃんたちにも見せてらっしゃいな」
「はーい」
とてとてと駆けてゆくエリー。
その小さな背を見送って、クレアは小さく呟いた。
「何をしようとしているの・・・、エル」
時間と言うのは、ときに恐ろしい速さで過ぎて往くものだ。
あっという間に日は沈み、昇り、また沈む。
時間が経つのを止めたいと思えば思うほど、過ぎるのが早くなると言う矛盾。
エルヴィンが孤児院を去る夜は、あっという間にやってくる。
目の前にはご馳走が。
そりゃもう、見事なご馳走が。
作ったのはもちろん、シスター・クレア。
「お手伝いしたのは、わたしー」
元気に手を挙げるエリー。
「うまそー」
「これだったら、何度でもエル兄ちゃん旅に出ていいよー」
「それは、俺よりこのご馳走が大事だということかな？ジャン君？」
「わかりきったこと聞かないでよ、エル兄ちゃん〜」
まぁ、当たり前なわけで。
「神さまー！最後の最後まで虐めますー」
「ほらほら、冷めちゃうから早く食べましょう」
「あー、ジャン、ペリン、ダメだよー、いただきますしてないんだから〜」
「ペリンッ、俺の肉だろそれ〜」
「へーん、早い者勝ちだーい」
「もう〜〜〜」
賑やかに。
穏やかに。
テューテ孤児院の夜は更けていく。
それは、彼、エルヴィン＝ウインドにとって本当に幸せな、そして最後の休息。
ランプの灯が消える。
消したのはエルヴィンだ。
ジャン、ペリン、エリー。
三人ともよく寝ている。
「・・・・・・」
もう一度だけ、三人の顔が見たくて、エルヴィンは再びランプに火をつけた。
はしゃぎすぎて疲れたのだろう。
本当によく寝ている。
そして、とても幸せそうだ。
「エル兄〜」
「う、ん、ちゃんと働け〜」
「甲斐性なし〜。ムニャムニャ、ぽ」
「・・・・・・・・・・・」
起きてるんですか？
君たち起きていやがるんですか？
「寝てます」
「ｚｚｚＺＺＺ」
「すやすや」
・・・・・・・・・・。
寝ている。
寝てますとか聞こえたのはきっと寝言。・・・・間違いない。
寝顔を見やる。
子供は天使だと言うが、あながち間違いではないだろう。
からかわれてばっかりだったけど、それはそれでとても楽しかった。
「・・・・・じゃあな」
ランプが消える。
今度は振り返らないで、エルヴィンは子供たちの部屋を出た。
そのまま暖炉のある部屋へ行き、暖炉の上に古びたオカリナをそっと置く。
使い込まれたそれは、まるで主人との別れを名残惜しんでいるかのよう。
物言わぬオカリナを撫で、エルヴィンはその部屋を去る。
次に向かう場所は決まっていた。
礼拝堂。
そこにシスター・クレアは居るはずだ。
僅かな蝋燭の明かりだけが、礼拝堂を夜とは別の空間にする。
シスター・クレアは祈っていた。
ひたすらに、ひたむきに祈っていた。
エルヴィンが礼拝堂に入ってきた足音にも微動だにせず祈り続けている。
彼女にあと数歩というところで、エルヴィンは足を止めた。
そして、何年ぶりだろうか。シスターをこう呼んだ。
「母さん・・・」
「・・・・・・」
クレアは振向いた。
その瞳は、全てを識った色をしている。
「変かな、久しぶりだと」
照れながらエルヴィンは言う。
「えぇ、とても変ね」
優しく微笑んで、それからクレアは続ける。
「もう、行くのね」
「うん」
今度は悪戯っぽく微笑んだ。
「あの子たち何て言うかしら？」
「さぁ？」
「ふふ、あの子たちが騒ぐ様子が目に浮ぶわ」
「そりゃ、すごいだろうさ」
二人で一緒に笑う。
でも、その笑いが終わると、静寂がやってくる。
静かに、静かにやってくる。
静寂の中からクレアは言う。
「―――私ね、本当にあなたのお母さんになれたのかしらって今でも思うことがあるの」
「・・・・・」
そして今度は寂しそうに微笑む。
「なれたのかしら、私・・・」
「ごめん、母さん」
「何で謝るのよ、エル」
「何で、かな・・・・」
クレアとの出会いは、本当の父母を失った直後だった。
思えば、それからの十数年、何と迷惑をかけてきたのだろう。
どれほど、悲しませてきたのだろう。
「俺、母さんと暮らせて幸せだった」
「私もよ」
クレアの目に光るものがあった。
そういえば、何とはなしにエルヴィンの目頭も熱い気がする。
「本当、迷惑かけたと思ってる。モンクになる時だって」
「まだ気にしてるの？いいのよ、私に気を遣ってプリーストになられても、ねぇ？」
くすくすと笑う。
「あなたはあなたの道を選んだ。そして、また、あなた自身の決断で道を選ぼうとしている」
「・・・・・」
「ティナちゃんの所へ行くんでしょ？」
エルヴィンの顔に、少し驚きが浮んだ。でも、すぐにそれは微笑みに変わる。
「知ってたんだ・・・」
「大聖堂で彼女がどうなったかを聞いたとき・・・、すぐに思いついたわ」
クレアはあえて微笑み、そっとエルヴィンの頬に手を当てた。
「止めても、無駄よね」
エルヴィンは言葉につまる。
止められても、決意は変わらない。
でも、謝らずにはいられない。
「本当にごめん。俺、わがままばっかりで」
コツンと頭を叩かれる。
「虚偽申告はダメよ、エル。あなた、どこがわがままだったって言うの？」
「――――」
「これもまた、運命。それとも、あなたが選んだ必然、かしら」
また、クレアは微笑む。
でも、今度は、涙が零れていた。
とめどなく、零れていた。
礼拝堂の床に、暖かい雨が降る。
エルヴィンは、クレアを抱きしめた。
「母さん――、ありがとう」
心の底から言葉を紡ぐ。
飾りなどいらない。
必要ない。
「わたしこそ、ありがとう」
クレアもまた、エルヴィンと同じだった。
闇。
暗闇。
星明りもいまいち頼りない夜。
闇へと続く道。
そこへ一歩を踏み出してエルヴィンは振り返る。
「それじゃ、往ってきます・・・・・・、母さん」
クレアは、応えない。
ただ、微笑んでいるだけだ。
でも、その微笑みは百の苦しみと千の悲しみと万の喜びを分かち合ってきた彼にだけ見せる、とびきりの微笑だった。
同じような微笑を、エルヴィンは返す。
そして、二度と振り返らずに闇の中へと消えていった。
「往ってらっしゃい、そして・・・・・さよなら、エル」
エルヴィンの姿が見えなくなってから、クレアはそっと呟く。
それと同時に、先ほどやっと治まった涙が、また溢れてきた。
でも、クレアは止めようとはしない。
止めようとも思わない。
泣くだけ泣こうと、そう決めた。
闇の中。
エルヴィンは、歩く。
歩く。
一定の歩幅を保ったまま、静かに歩く。
プロンテラ近くの森の中。
気配がする。
動物たちだ。
気配がする。
草木たちだ。
気配がする。
「・・・・ッ」
直感で、エルヴィンはその場から飛びのいた。
エルヴィンの居た場所に暗闇から突然、煌く何かが振り下ろされる。
闇の中にあってなお光る研ぎ澄まされた刃。
刃と共に男は姿を現した。
その男、エドワード＝ハンティングフィールドは刀の切っ先をエルヴィンの喉元に突きつけたまま口を開く。
「何処へ行く、わが友よ」
「いきなり物騒じゃないか、エド」
苦笑しながら、エルヴィンはエドワードに応える。
「何処へ行くつもりだ」
「・・・・・・・・、ぶらり一人旅」
エドワードの表情は硬い。
怒りに満ちていた。
「嘘をつくな！」
雷のように低く轟く声が森の中に響く。
だが、エルヴィンは少しも臆さない。相も変わらずその目はエドワードを静かに見据えている。
「街で、シスターに会った。話してみれば、君が旅に出るということだったが―――」
エドワードはそこで一度言葉を区切る。
そして、少し、ほんの少しだけ、柔らかな口調で言った。
「違う、君は違う。エル、君はティナの仇討ちに行こうとしているのだろう？」
エルヴィンは黙っている。
「俺は、言ったはずだ。仇討ちなどするなと」
「・・・・・、エド」
ゆっくり、エルヴィンは口を開く。
「俺は、仇討ちなんかするつもりはない。ただ、ティナの魂を救おうとしているだけだ」
「救う、救うだと？あの子の魂を？どうやって？」
「さぁ、どうすることやら」
エルヴィンは穏やかだ。
凪いだ海のように穏やかな顔をしている。
「・・・・何故だ？何故、そんな馬鹿な真似をしようとするッ」
問う。
北の洞窟は、永久封鎖を言い渡された。
モンスターハウスは、未来永劫閉ざされる。
それで―たとえ己が納得していなくとも―この一件については解決したはずだった。
だが、この男は、その死地へ向かうつもりだ。
「――――あいつのこと、心底、好きだから、さ」
エルヴィンは、きっぱりと言い切った。
「・・・・・それだけか？」
それは、エドワードにしてみれば、決してくだらない理由ではなかった。でも、それでも彼を死なせる理由になどなろうはずもない。
「ああ、それだけだ」
「・・・・・・愚かな。そんなくだらない理由で」
だから、あえてきつく言った。
「でも、俺が戦う理由には成りえるさ」
微笑んでいる。
死地に向かう男が微笑んでいる。
「・・・・・」
だが、ここを通すわけには行かない。
北の洞窟へ行けば、どう足掻こうが、彼は必ず死ぬ。
死ぬのがわかっていながら、友を行かせるわけにはいかない。
「シスターは―――」
「知ってるよ、もう」
「！」
北の洞窟へ行くとは知らないから、シスターはエルヴィンを送り出したと思っていた。
だが、実際は違う。
クレアは全てを識って、それでも見送った。
永遠の別れになると識りながら、見送った。
その間の葛藤がどれだけ凄まじいものかだったなど、考える必要もない。
それでも、彼女は最後まで穏やかにエルヴィンを見送った。
「お前は、何故、行くことができる？悲しみにくれる人の事を考えて、それでも行けるのか？
それでも行くと言うならそれは、自分勝手だろう。どんな結末を迎えようが、それはお前の自己満足だ」
諭すように言ったつもりだ。
なだめるように言ったつもりだ。
彼が一時の感情に流されようとしているのなら、止めなければならない。
「ああ」
だが、エルヴィンはエドワードの言葉を肯定する。
「俺の、自己満足かもしれない」
冷たい声だった。
場が凍りそうだ。
だが、次の瞬間、エルヴィンはそれを融かすかのように暖かな口調で言った。
「そうだ、エド。一つ頼まれてくれないか？」
言って懐から何かを探り出す。
光り輝く小さな結晶が取りだされた。
ゼロピーだ。
「初めての冒険で、初めて倒した敵から、初めて拾ったものなんだ。ずっとお守り代わりにしててさ。
・・・・・これを、シスターに渡してほしい」
「・・・・・断る」
エドワードには、わからない。
この友がわからない。
何故、死にに行くのかがわからない。
何故、あの生活を捨ててまで行くのかがわからない。
何故、そうまでしてあの子を助けようとするのかがわからない。
自分はどうだ？
自分だって、妹は助けたい。
だが、それで死んでしまっては意味がない。
だから、耐える。
この、苦痛を耐える。
なのに、それなのにこの友は行くというのか。
「エル、頼む。行ってはだめだ。これ以上、俺を悲しませないでくれ。シスターを悲しませないでくれ。お前を知る皆を悲しませないでくれ」
止め処なく言葉は溢れる。
いや、涙すら溢れていたのかもしれない。
「・・・・・・わかったよ、エド」
エルヴィンが微笑んだ。
何とか、止められたのだろうか。
少なくとも話し合える時間は出来たのではないだろうか。
エドワードは、少しだけ安堵した。
そして、次の瞬間、強烈な衝撃がその身体を襲う。
五臓六腑が悲鳴を上げた。
「か、は・・！？。発・・・剄・・・・・・か」
「ごめん」
薄れ行く意識の中に、エルヴィンの声が響く。
「最後まで、迷惑かけてすまない」
足が笑って、立っていられない。
不意打ちとは言え、やられたものだ。
「俺、エドのこと・・・本当の兄さんだと思ってた。いや、今でも思ってる」
そこで、エドワードの意識は途切れた。
次に目を覚ましたとき、そこにエルヴィンの姿が在ろうはずもない。
ただ、彼がエドワードに託したゼロピーだけが、朝の聖光にキラキラと、キラキラと輝いていた。
雨。
雨。
雨。
冷たい雨。
青を覆う灰色は、昼をさながら夜へと変えたかのようだ。
時折光る閃光。
間をおいて響く轟音。
雨。
雨。
雨。
それは、突然の雨。
ただ、幸いだったのは―否、大して変わらないだろうが―エルヴィンが北の洞窟の入り口に入った瞬間、降り始めたということだ。
雨が地面を打つ。
雨が岩を打つ。
それ以外に打つものはない。
木も、草も、洞窟周辺には見当たらなかった。
生命を枯らす瘴気。
内臓がひっくり返りそうなほどに醜悪な瘴気が漂っている。
それだけで、ここはすでに生命在るものたちを否定していた。
その瘴気の源、洞窟の奥へとエルヴィンは足を踏み入れる。
戸惑いも迷いも何もない断固とした足取りだ。
エルヴィンは何を臆することもなく、洞窟の奥へと足を進めてゆく。
まだ、何もいない。
まだ、何も襲ってはこない。
ただ、どこか遠くの方で呻く声が聞こえた。
それはさながら生者を否定する死者の慟哭。
少し進むと、確かに人の住んでいた気配がある。
炊事場や寝室らしき横穴がいくつかあるようだ。
さらに進むと突然開けた場所に出た。
どうやら祭壇のあるところを見るとここが集会の場らしい。
祭壇の奥には柵があった。
洞窟の奥と、この場所とを仕切る境目、すなわち生と死を仕切る境目。
あの奥に住むグールたちを拝んでいたのかと思うと、気が滅入りそうだ。
そして、柵は今、その役目を果たしてはいない。
広場の至る所に、血痕や、得体の知れないもの―おそらくは肉片だったもの―が散乱している。
不老不死を追い求め、挙句の果てには自分たちが崇めるグールになってしまったなど、洒落にもなったものではない。
大方モンスターハウスになったのも、柵がグールによって破られたからだろう。
エルヴィンは一つ、息を吐く。
そして、吸う。
調息。
今度は丹田より発した気を、練る。
ポッと明るい球が自分の周りを取り囲んだ。
そのまま、柵に近づいていく。
柵を越えれば、そこは彼らの領域。
アンデッドが支配する、終わりなき絶望が待っている。
戻るなら今しかない。
だが、あいにくエルヴィンの思考にそんなものはなかった。
この時のエルヴィンは狂っていたのかもしれない。
否、ティナがアンデッドになったと聞かされたときから、既に狂っていたのかもしれない。
もっとも、何をもって狂っているかなど誰にも説明できないだろうが。
躊躇など微塵もなく、エルヴィンは柵を越えた。
より一層濃くなる瘴気。
より一層深くなる闇。
より一層響く呻き声。
ここからは彼らの領域。
死に生きる夢幻地獄。
ずるっという足音が四方から聞こえてくる。
あーぅあという耳障りな呻き声が八方から聞こえてくる。
エルヴィンは足を止めた。
ティナのロザリーを握り締め、目を閉じる。
ロザリーから手を離し、左拳を天に向け、右の拳を水平に、胸の前で十字を作る。
大きく息を吸い込み、そして、声高らかに朗々と戦いの口上を述べた。
「主のために守らん
主の御力を得て
我ら すみやかに主の命を実行せん
川は主の下へと流れ
魂は一つとならん
されど この一時だけは
私情のためにこの拳を振るうことを許し給え
生ある者に祝福を 不死なる者に安息を」
果たしてそれは天に届いたのだろうか。
洞窟の天井に阻まれたのではないだろうか。
迫り来る闇に呑まれたのではないだろうか。
されど。
されど。
口上は確かに述べられた。
終局へ向け、確かに述べられた。
「エルヴィン＝ウインド、参る」
閉じた目を、見開く。
口上など知ったものかと、早々に襲い掛かる死屍がいた。