一月ほど経ったであろうか。
今では、蝉の鳴声は少なくなり、代わりに秋虫が夜の空をその響きで覆い尽くすのであった。
この一月、何度か鬼はやってきた。
だが、どれもあの一つ目鬼の比ではない。
力に引き寄せられてやってきた、雑多な鬼たちであった。
最初の十日は、紅零一人で片付けていたが、程なくして瑞穂も共について来るようになった。
「私の仕事ですから」
それが彼女の言い分であった。
まだ回復していないのでは、と言っても、
「そのときは紅零さまに護ってもらいますから」
そう言って微笑んだ。
紅零は紅零で、それ以上は何も言わない。
同じく微笑むだけであった。
惹かれている。
日に日に二人は惹かれあっている。
それは、親として彼女を育て上げてきた境詠と里香にとって、うれしくもあり哀しくもあった。
「そろそろ、か」
日増しに二人の呟きは増えていった。
満月。
眩しいほどの月光が、地上に降り注いでいる。
がさり
何かが村の近くで蠢いた。
「ぎぃぎぎ」
あの一つ目鬼であった。
大きな目玉が爛々と月光を反射している。
その近くには、人のようなものがいた。
だが、人にしては白すぎるし角がある。
白麻呂であった。
「いい夜だ」
「ぎぃぎ？」
「わからぬよな、お前では」
くっく、とあの陰気な笑いを洩らす。
「さぁ、我が姫を頂きに参ろうかね」
「ぎぎぃ」
一月、一月待った。
この間、あの妙な人間は随分、瑞穂と馴れ馴れしくしてくれた。
苛々したものだ。
だが、時がある。
仕掛けるには待たねばならなかった。
彼にとってこの一月は、まさに生殺しの毎日であった。
「どう殺してくれようか」
にたりにたり、と白麻呂の口元が歪んだ。
だが・・・・。
ぶん
村までもう少しといったところであった。
しかし、彼らの足は進まない。
いや、進めない。
「結界・・・・・だと？」
村の周囲には、結界が張り巡らされていた。
ただの結界ではない。
複雑に幾千も織りめぐられた不可侵結界。
邪のものを通さぬこの結界、村に張るには少々、贅沢な品である。
加えてこのような結界を張れる者など、そうはいない。
都の陰陽師や高野の僧、それも相当な力がなければ、これほどのものは張れないだろう。
「やはり、ただの人間ではないようだ」
にたりと笑う。
「おもしろい夜になりそうだね」
結界に手をかざすと、白麻呂は何かを唱え始めた。
「ぎぃ、ぎぎ」
一つ目鬼はただ鳴くだけであった。
ぱっと目を開けると、月の光が紅零の目に飛び込んでくる。
今宵は、満月。
魑魅魍魎が跋扈するにもってこいの夜である。
念のため、彼は特別高度な結界を張った。
だが。
「破られたか」
床で呟く。
下等な鬼では触れた瞬間、消えてしまうほどの、強力な結界である。
「触れるだけでなく、破ってくるとは」
どうやら大物がかかったようであった。
傍らでは瑞穂が寝息をたてている。
寝顔を見つめる。
この一月、紅零は幸せだった。
正直、心休まるときなど永遠に来ないと思っていた。
あの日以来、自分は幸せを感じてはいけない。
そう思っていた。
でもそうではなかった。
この一月が永遠に続くならそれもいい。
そう思ってしまえるほど、幸せであった。
「瑞穂・・・・」
傍らで寝るその人の名を呟いて、彼は立ち上がった。
「ぎぃぎぎゃあ」
境内に出た瞬間、一つ目鬼が斬りかかって来た。
今度は手に刀をもっている。
「この前のとは・・・・違う」
ひゅ
紅零は紙一重で横薙ぎを避けると、懐から那由他を取り出した。
みるみる光刃が生まれる。
「ぎぃぎっぎがぁああ」
一つ目鬼が一気に間合いを詰めてくる。
縦薙ぎ、横薙ぎ、突きと間髪いれずに繰り出してくる。
「やりますね」
にっと紅零は笑った。
「でも・・・・・」
彼は左手に愛刀を持つと、右手で印を組み始めた。
「お前は本命じゃない」
ぴっ、と右手を一つ目鬼にかざす。
ばしゅっ
閃光が疾り、一つ目鬼は空中に飛ばされた。
たんっ
紅零も空中に飛び上がり、那由他の切っ先を一つ目鬼の胸元へ突き刺した。
「ぎぃ、ぎゃぎゃぐ」
そのままもがきながら、地上へ落ちる。
「ぎぃぃ、ぎゃ」
最後に一鳴きすると、もう動かなくなった。
ぱちぱちぱち
何処からか手を叩く音が聞こえる。
「強いねぇ、人間」
月明かりに照らされた杉の木の上に、何ものかが立っていた。
「貴方が本命か」
嬉しそうに紅零が笑う。
くっく、と木の上の影も笑う。
「白麻呂」
そう言うと、ひゅっと地に降り立った。
「私の結界を破るとは、なかなかやりますね」
賞賛の言葉を口にしながらも、紅零の目は爛々と深紅さを増してゆく。
「そちらも、相当な使い手のようだねぇ。強化術を施した我が下僕を、紙切れのように」
にたりと笑う。
二人は互いが一歩踏み出せば、鼻と鼻がぶつかるほどの距離にいた。
見えない牽制が場を支配する。
「どのような用事でいらっしゃったんです？」
紅零は言った。
「そうだねぇ、まずそちらにいる娘を頂戴にね」
ひゅっ
にやりと笑った白麻呂は、風のように紅零の右脇をすり抜けた。
「速い・・・・」
呟く紅零の背後でくっくっ、と白麻呂の笑いがする。
「それから・・・・・・君の命も頂けるかな」
爆音
白麻呂の手から閃光が放たれた。
「紅零さまっ」
何事かと思い外に出てみれば、得体の知れぬ何かが、紅零に向かって閃光を放っているところであった。
土煙が舞っている。
得体の知れぬ何かがじろりとこちらを向いた。
「やぁ、瑞穂」
白すぎる顔の鬼が自分の名を呼んだ。
身震いがするほど嫌な声だ。
「くっく、そう怖がらないでくれよ。私は白麻呂」
ひゅ
また、風になった。
「くっ」
いつの間にやら、白麻呂は瑞穂の横に立ち、肩に手を回してきた。
「君をめとりに来た」
長い舌が見える。
近くで聞けばきくほど嫌な声であった。
「離れなさい」
里香が叫んだ。
傍らには境詠もいる。
「おぉ、父君と母君か」
にたりと笑うと白麻呂は二人の傍へ行き、異常なほど丁寧にお辞儀をした。
「瑞穂を是非我が元へ嫁がせてはくれまいか」
有無を言わさぬ響きがあった。
「生憎、生意気な用心棒には黙ってもらったからねぇ。下手な真似はしないことだ」
土煙はまだ晴れない。
ちらりと白麻呂が、瑞穂を見た。
「それに君に使えている、武神。確か、武尊といったかな」
言ったか言わぬか、巨大な手が白麻呂を弾き飛ばした。
「はは、それだ、それだ」
うれしそうに白麻呂が言う。
「そいつも是非、欲しいね」
青い血を拭いながら、白麻呂は立ち上がった。
「武尊、遠慮はいらないわ・・・・・」
拳を固く握り締めながら瑞穂が言う。
「叩き潰してっ」
―よろこんで
一月前よりも鮮明になった武尊が答えた。
「くく、すばらしい、君の力と共に成長しているんだね」
余裕の表情で、武尊の攻撃をことごとく白麻呂は避けた。
「くっ、負けない」
ありったけの力で武尊を操る。
ぶんっ
「でもまだまだ、発展途上だ」
瑞穂の顔を覗き込みながら、白麻呂は言った。
「そ、そんな」
―主に近づくな、下衆がっ
武尊が叫ぶ。
「下衆とはまた・・・・教育がなっていないねぇ」
瑞穂から離れた白麻呂は、溜息をつきながら武尊に向かって閃光を放つ。
―ぬぅ
正面から受け止める武尊。
「くく、いつまで持つかな。なぁに消しはしないさ。君もいずれ私の下僕となるのだからな」
その時であった。
「がはっ」
何かが白麻呂の脇腹に突っ込んだ。
悶絶しながら白麻呂は地面を転がる。
「な、何？」
その何かに瑞穂は視線をやった。
そこにいたのは、二匹の白い狐であった。
優しさに満ちた目を瑞穂に向けている。
その目に、彼女は見覚えがあった。
「父・・・さま？母・・・さま・・・・なの？」
両親のいた場所に視線を移す。
いない。
また、狐のほうに目をやった。
「そんな・・・・」
―妖狐か
武尊が呟いた。
「本当に・・・・そうなの」
二匹が頷いたように見えた瞬間であった。
「この畜生がっ」
白麻呂が閃光を次々と放つ。
左右に飛びながら二匹の狐は、それぞれ口から火球を吐いた。
「効かぬわっ」
だが、白麻呂の右手一振りで、ふたつの火球は消えた。
「我が何故、今日を選んだと思う？くく、そうさ、この月光こそ我が力の源。今宵の我は貴様ら如き化生になぞ、劣りはせぬ」
満月であった。
見事な、満月であった。
白麻呂は強い。
二匹の妖狐が同時かかっても白麻呂は揺らがない。
「ぃぃぃいい」
白麻呂の長い爪が一匹の妖狐の腹を裂く。
「父さまっ」
父であったその妖狐が地面に落ちてきた。
追撃してくる白麻呂を武尊の右手が薙ぐ。
「くくく、無駄だ、無駄だぁ」
白麻呂の両の手から次々と閃光が放たれる。
―くっ
武尊が耐えるその隙にもう一匹の妖狐、里香が火球を白麻呂に浴びせる。
「五月蝿いんだよ、狐の分際でなぁ」
白麻呂の左手が伸びて、里香を叩き落した。
「母さま」
里香は口から血を流し、地面に倒れた。
「邪魔だ、この動物め」
白麻呂がぞっとするような口調で言った。
だっ、と空を蹴ると白麻呂は一直線に里香に向かって爪を突きたてようとした。
「やめてっ」
瑞穂が叫んだと同時であった。
がぎぃぃ
里香の前に一つの影が躍り出た。
右腕一本で白麻呂の爪と競り合っている。
ばちばちと閃光が辺りを照らした。
「紅零さまっ」
呼ばれた影は、優しく微笑んだ。
「くく、我が呪縛をこれほど早く解いてくるとはな」
「なかなか、複雑に編みこまれていて、時間がかかったつもりですけどね」
さらりと紅零は言った。
「ふん」
白麻呂は鼻を鳴らすと力を込めて、紅零の腕から爪を離す。
二つの影が地面に落ちた。
「一体何者なのだ、人間め」
じろりと白麻呂は、紅零を眺める。
「紅をもって貴様らを零に戻すもの」
闇をも飲み込む深紅の瞳を輝かせながら、紅零は言った。
ぞくり
白麻呂の身体が、かつて一度味わった恐怖を思い出した。
「く、くくく、そうか。生きていたのだな」
嬉しそうに笑う、白麻呂。
「お前も、五年前に都を襲ったくちか」
にぃと紅零も笑った。
冷たい夜風が、辺りを震わせている。
「あの時の私は、ただ貴様に怯えるだけだったが・・・・」
ぎんっと白麻呂の目が光った。
「今は違う。私は新たな力を手に入れたのだ」
月光の光が白麻呂を包む。
「そう、あの老いぼれ、紅陽炎によってな」
邪気が白麻呂に流れ込んできた。
「そうか・・・・・翁は貴様らに力を貸したか」
呟くように紅零は言った。
「くはは、そうさ、人間に絶望したあの老いぼれは、あの方に力を貸したのさ」
にぃっと紅零は笑う。
「何がおかしい、貴様はあの紅陽炎の孫にして最高傑作だそうではないか」
二匹の妖狐が、静かに紅零を見ていた。
「だからどうした？」
ぎろり、と白麻呂を睨みつけるその目は、やはり深紅であった。
ぞくり
また、白麻呂は恐怖を感じた。
「き、貴様を殺れば、俺はもっと上にいける。俺は力を手に入れたのだ、貴様になぞ負けぬ」
白麻呂の目が狂気に光る。
「やれやれ、翁も面倒な奴を造ってくれたものだな」
自嘲的に笑いながら紅零は印を組む。
「能力限定解除・・・・・『紅』承認」
ざわっ
場が重くなる。
さっきまであったはずの風が止まった。
―ほぉ、主よ、おもしろいものが見れるぞ
それまで黙っていた武尊が彼の主に向かって言った。
「これは・・・・一体」
一部始終を聞いていた瑞穂であったが、何がなにやらさっぱりわからない。
だが、間違いなく場の雰囲気が変わった。
鳥肌が前身を覆ったのがわかる。
「紅零さま・・・・・・」
その名を呟いた。
「消えろぉおおおお」
白麻呂の手から特大の光球が放たれる。
避ける。
いや、避けない。
紅零はその場に立っていた。
爆音
「や、殺ったか」
煙が上がる。
ひゅん
その煙の中から光が放たれた。
「ぎゃああ」
避ける暇などなかった。
白麻呂の左足が、消えた。
「貴様ぁ、私の左足を」
ざっ
紅零は、何事もなかったかのように、こきこきと首を回していた。
「こんなものか？白麻呂」
両手を広げて、白麻呂を誘っている。
「なめるなぁああ」
突進してくる白麻呂。
両手の爪は、先程よりも長さを、そして強さを増していた。
「八つ裂きにしてやる」
ふっと笑った紅零は、懐から那由他を取り出した。
「なら、俺は細切れにしてやろう」
しゃ
二つの影が満月を背景に交差した。
とん
影が地上に降り立つ。
暫し、沈黙。
どさ
八つ裂きにされた影があった。
「く、くくく、ははは、殺った、殺ったぞ。俺は、俺は、殺ったぞぉおおお」
満月に向かって、白麻呂は歓喜の叫び声を上げた。
「ひ、ひはは、おれが、俺が倒した」
ろれつが回っていない。
「そんな・・・・・・」
瑞穂は、自分の目を疑った。
紅零が、地面に倒れている。
「嘘・・・・」
じろりと白麻呂が瑞穂を見た。
「ひ、ひひ、殺ったぞ。お、俺、おれは」
ぼぎゅ
白麻呂の左足の切り落ちたところから、新たな肉片が生じた。
徐々にそれは、左足に変わってゆく。
「こ、来い、みずほ、きは、はは」
ゆっくりと、白麻呂は瑞穂に近づいてきた。
「紅零さま・・・・お願い、紅零さま」
瑞穂が叫んだ瞬間だった。
ひゅっ
「ぎ、ぎゃああああ」
白麻呂の身体が、首から上を残して細切れとなった。
「誰を殺ったって？」
紅零は、瑞穂のすぐ傍らに立っていた。
―ほぅ
武尊が感嘆の声を上げる。
「紅零さま」
ぱっと瑞穂の顔が輝いた。
「何故、何故だぁあああ」
確かに八つ裂きにしたはずなのに、白麻呂は思った。
「八つ裂きにしたのはあれのことか？」
はたして、八つ裂きにされた紅零の影はそのまま闇に消えた。
「謀ったな、貴様」
ゆっくりと紅零は、その喋る首に近づいていった。
「一時の愉悦はどうだった、白麻呂？」
何の感情も、その深紅の瞳にはなかった。
憐れみも、怒りも、愉しさも。
「う、うぉああああああああ・・・」
白麻呂のありったけの叫び声が上がった。
同時に、白麻呂の肉片が光り始める。
―まずいぞ、主
「消えろぉぉぉおおおお」
ひゅいん
大爆発
「ひはは、消えろ、消えてしまえ」
最後に、自らの首も爆発した。
だが、白麻呂は見た。
笑っている。
深紅の瞳が笑っていた。
―あれほどの威力を防ぐとは・・・・・
再び武尊は、感嘆の声を上げた。
瑞穂は黙っている。
瑞穂たちの周りには、防壁結界が張られていた。
この村の周辺一体にも、それは張り巡らされているようであった。
ぱらぱら
焼け焦げた土が天空から降ってくる。
爆発の中心には、何事もなく紅零が立っていた。
―なるほど・・・・・
ぼそりと武尊が呟く
「どうしたの？」
主の問に、武尊は答えなかった。
東の空がわずかに明るくなってきている。
夜明けが近いようだ。
そんな、わずかな光に照らされて、二匹の狐が倒れている。
「父さま・・・・、母さま・・・・・・」
瑞穂は二匹の狐に覆い被さるようにして泣いていた。
「泣くな、我が娘よ」
境詠が言う。
「でも・・・・」
「この程度の傷で、私たちが死ぬもんですか」
里香も言う。
「我らは妖狐ぞ、この程度の死線、幾度も越えてきた」
境詠は言いながら、ちらりと紅零の方を見やった。
「それにしても紅零殿・・・・・、あなたが紅陽炎の孫とは」
くっく、と笑う。
「世の中とは狭いものね」
里香も笑いながら言った。
「知ってらっしゃるんですか」
境詠の傷口に薬草を塗りながら、紅零は尋ねる。
「五百年も生きていればな」
境詠が言う。
「彼が若いときに一度だけあったことがあるの」
里香が言う。
「そう・・・・ですか」
それでその話は、それっきりであった。
白々と夜が明ける。
眩しいほどの光が、地上に満ちていた。
「瑞穂、我が娘よ・・・・・」
朝日を浴びながら、境詠が口を開いた。
「今まで・・・・・黙っていたこと、許して欲しい」
ふるふる、と瑞穂は首を横に振るう。
「十八年前、山に捨てられていたあなたを、私と境詠は見つけたの」
里香が続ける。
「出来心・・・ではなかったわ。上手く言えないのだけれど・・・・それでも私たちは、あなたを育てることにした」
「育てるには、人間の姿でいたほうが何かと都合がよくてね。丁度見つけたこの村に、神社ごと化けたのだ」
くっく、境詠は笑いながら言った。
「強いのですね」
紅零が言う。
よほど強力な霊力がなければ、神社ごと村人の心まで欺く事などできないはずだ。
「いいえ、ただ五百年も生きただけ。ただそれだけですよ」
寂しそうに、里香は答えた。
暫しの沈黙が流れる。
「いずれは、こんな日がくると思っていた」
瑞穂と紅零を交互に見つめながら、境詠が口を開いた。
「この娘に、好きな男ができたら・・・・・・」
ちらっと紅零を見やる。
「そして、その男が信頼できるものならば、私たちの役目は終わりだ」
それは、まぎれもなく父親の声であった。
「父さま、母さま・・・・・・・」
瑞穂の目に涙が溢れた。
「この娘を、瑞穂を、どうか護っていただきたい」
確かに、紅零は頷く。
いつの間にか、二匹の妖狐は人の姿になっていた。
瑞穂が二人に抱きしめられている。
「五百年生きたけれど、あなたを育てた十八年が一番、幸せだったわ」
つぅと涙を流しながら里香は、瑞穂の髪の毛を撫でた。
日の光に反射して、その黒い髪がきらきらと、きらきらと輝いていた。
「ありがとう」
瑞穂は、父と母にそう言った。
旅立ちの朝であった。
吹く風は、少し肌寒いが気にはならない。
二匹の狐が、山の入り口からこちらを見つめていた。
少女が手を振った。
青年は軽く会釈をした。
二匹は一鳴きすると、姿を消した。
そして、二人は道を歩きだす。
―紅零殿
傍らを歩く瑞穂から、にゅっと武尊のいかつい顔が現れた。
流石にいきなり来られると心の臓に悪いな、そう思いながら紅零は苦笑した。
―ああ、これは失礼致した
武尊が釈明しながら言う。
―我が主のこと、よろしく頼む
いかつい顔が頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
紅零も頭を下げる。
そんなやり取りを、瑞穂は微笑ましく眺めていた。