紅い風
二ノ章 鬼寄せ
風が吹いていた・・・・・・・
蒸し暑い風が、山々の木々をかすめる。
木陰となっているところは、日なたのそれより幾分か涼しいものの、やはり暑い事に変わりはない。
ふと空を仰げば、木々の隙間から雲が流れていくのが見える。
青い空に白い雲。
これでこの暑ささえなければ。
一体何度目の呟きだろうか。
人の往来の少ない山道を歩きながら、青年は思った。
もっとも、本人は暑いといいながら汗一つかいていない。
青年、名を紅零といった。
年の頃は二十歳を過ぎたところであろうか。
細身の身体に、いかにも旅人といった格好をしながら、荷物と言えば、腰に提げた小さな袋一つだけであった。
奇妙といえば奇妙である。
こんな山道よりも、都の豪邸の洒落た縁側に座って居たほうが似合いそうな、そんな風貌だ。
「暑いですねぇ」
また呟く。
前の町―そんなに大きくはない―の者の話では五日も歩けば次の村へ着くであろうとのことであった。
今日で五日目である。
そろそろ、その村とやらが見えてもよい頃合いだろう。
太陽が真上にあった。
いよいよその強さを増してきた日差しが、樹と木の隙間から、容赦無く注いでくる。
と、何処からか水の流れる音がした。
踏み固められた山道を外れ、その音のするほうへと行ってみれば、どうやら小さな川があるらしい。
ちょろちょろと頼りなくではあるけれども、その水は紅零の喉を潤すには十分な冷たさであった。
「これがこの世の極楽かな・・・・」
相当喉が渇いていたのであろうか。
えらく年寄りじみた言葉を口にする紅零であった。
一息つきながら空を眺めれば、いつの間にか白い雲は黒く染まっている。
「一雨くる、か」
ぽつりと呟く彼の鼻を、ぽつりと雨粒が叩いた。
ざー
雨はその勢いを増しながら、叩きつけるように地面に向かってくる。
閃光が空を疾り、次いでごろごろと、遠くから雷の音がした。
先程までの青空は、もはや微塵も感じられない。
ぬかるみ始めた山道を、やはり青年は歩いている。
雨など気にならないのだろうか。
いや、心なしかその歩みは、少し速いかもしれない。
しかし、青年は歩いている。
雨が頭上の木の葉にあたって、煩わしい。
ぎい、ぎゃ。
「・・・・・」
その煩わしい雨音に混じって、何かの叫び声が聞こえた。
それまで柔らかかった彼の目が、砥いだ刀のような鋭さを帯びた。
「気のせい・・・・ではないな」
紅零は耳をそばだてた。
常人ならばこの雨音で聞き逃してしまうだろうが、この青年に限ってそれはない。
不思議な青年であった。
「・・・一匹、二匹、そして一人、か」
叫び声はちょうど前方から聞こえた。
「久々だな・・・・・・・」
紅零の口元が僅かに綻ぶ。
たん
次の瞬間、その身体は風となって木々をかすめていった。
鬼がいた。
白い体躯は、大きい人間ほどであろうか。
顔に大きな目が一つだけ覗いている。
元々は三匹いたのだが、一匹は首と胴が離れてしまい動く気配はない。
「ぎゃぎぎ、ぎゃ」
人の言葉は喋れないようであった。
だが、その声には明らかな敵意が含まれている。
「ぎゃ、ぎ、ぎゃ」
二匹の鬼は、一人の人間と対峙していた。
人間、それもまだ十七、八の少女である。
少女の長い黒髪は、雨に濡れて漆器のように輝き、端正な顔立ちはこれまた、山道に不似合いであった。
「ぎゃ」
人間の少女に対しては、いささか大袈裟な威嚇であった。
だが、二匹の鬼が威嚇しているのは直接少女に、ではない。
威嚇されているのは、少女の身体から漂うように出ている大きな何か、である。
それは、一見すると鬼のようであった。
青白いようで緑色のようで、はたまた黒いような白いような色をしている。いや、常に移り変わっているという方が適当であろう。
いかつい顔の周りからは、二本の角のようなものが突き出しており、額中央に何やら光る石のようなものがついていた。
その上半身は、所々突起しており強固な砦のような印象を見るものに与える事であろう。
だが、足がなかった。
いや、正確には太腿まではあるのだ。
しかし、太腿から先が霞んでいる。
霞みは少女の身体を源にしていた。
「立ち去りなさい」
少女が言った。
何の感情も感じられない。
かといって威圧感も無い。
「お願いです」
その目は虚ろなようで、はっきりともしていた。
「ぎゃあ、ぎゃ、ぎゃ」
二匹の一つ目鬼には、退く様子がない。
むしろ言葉を理解していないのだろう。
「ぎゃああ」
一匹が果敢にも、その大きな何かの顔めがけて飛びつく。
ぶん
少女が右腕を薙ぐと、それの巨大な右腕が、蝿を払うかのように一つ目鬼を叩き飛ばした。
「ぎ、ぎゃ」
ぬかるんだ地面にぶつかる瞬間、一つ目鬼は四肢に力を入れ踏ん張る。
地面との直撃は免れたようだ。
間髪いれず二匹目が少女の後方に迫る。
「ぎゃぎぎゃ」
鋭い爪が少女の背中を切り裂いた。
切り裂いたはずであった。
だがしかし、巨大な何かの手がそれよりも早く少女の背後にまわったようだ。
弾き返される爪。
「ぎぎゃああ」
よほど全力であったのだろう。
痛そうだ。
「武尊、一気にいきます」
少女は、その巨大なものを武尊と呼んだ。
どくん
「くっ」
少女の心の臓が鼓動する。
「武尊、早く」
武尊は動かなかった。
少女の動きに何の反応も示さない。
「武尊っ」
どくん
心の臓の鼓動ともに、武尊と呼ばれたそれの姿が薄くなる。
「そんな・・・・」
少女の顔に焦りが浮かぶ。
「ぎぎゃ」
まさにそれを好機と見たのであろう。
二匹の鬼が一斉に少女に襲い掛かる。
「動いてっ」
僅かに武尊は動いた。
一匹の攻撃をその身体に受け止める。
「痛っ」
だが、先程までの勢いがない。
武尊の受けた攻撃が、直接少女に伝わる。
「くっ」
緩慢になった武尊の左腕は虚しく宙を切った。
「ぎぎゃ、ぎゃぎゃぎゃ、ぎゃぎぃ」
歓喜の声を上げる二匹。
どくん
また、心の臓がなった。
武尊の影が薄くなる。
それと共に少女の意識もふらついてくる。
どくん
次の脈動で、完全に武尊は消えた。
少女もまた地面に倒れる。
「ぎゃあ、ぎゃぎ、ぎゃぎぎぃ」
二匹の一つ目鬼が少女に近く。
「来ない・・・・で」
切れ切れに少女が呟く。
「ぎゃぎぎ」
一つ目鬼は笑っていた。
獲物をいたぶる光景を描いているのだろう。
この手の鬼は、とかく獲物をいたぶるのが好きらしい。
高度な鬼ともなれば人語を理解するが、この連中はむしろその鬼たちに使役される極めて下等な鬼である。
下等なりの不満が、彼らにもあるのだろうか。
このような連中にとっては人間の女など、憂さ晴らしにうってつけだ。
「ぎゃぎひゃ」
涎まで垂らしている。
「く・・・・」
頬を伝うは雨であろうか、それとも涙であろうか。
四肢に力が入らない。
意識が遠くへ飛んでしまいそうだ。
「ぎゃひゃぎゃ」
一つ目鬼の大きな目玉が、舐めまわすように少女を見た。
「誰・・・か・・・・・・」
こんな山の中だ。
だれも助けになぞ来るはずも無い。
いや、山の中であろうとなかろうと、少女を助けようとするものは、両親を除いてあの村には居るまい。
はっきりと熱い雫が頬を伝ったのがわかった。
「ぎゃ、ぎぎゃひゃ」
「ぎゃぎゅ、ぎゃ」
歓喜の笑みを浮かべた二匹の手が、少女の腕を、足を掴んだ。
冷たく、枯れた落ち葉を踏んだような嫌な感触が、四肢に伝わってくる。
きっ、と少女は二匹を睨んだ。
「ぎゃひゃぎゃひ」
「ぎぎぎゃ、ぎゃぎゃ」
二匹はまた笑い出した。
獲物の最後の抵抗がこんなものか、そう言っているように見えた。
「ぎゃひゃ」
長い舌で己の目玉を舐めながら、一つ目鬼は少女に向かってその舌を突き出した。
舌が少女の頬に触れる。
まさにその瞬間であった。
「ぎぎゃあああああああ」
稲妻が落ちたのが先か、一つ目鬼が激痛に叫んだのが先かはわからない。同時だったかもしれないし、違うかもしれない。
だが、何かが稲妻と共にこの場に舞い降りた、それだけは確かなようである。
「気に食わないな・・・・・お前ら」
稲妻と共に降り立ったものが、二匹を睨みつけていた。
青年、であった。
彼は、少女に微笑んだ。
「大丈夫ですか」
少女はなんとか首を縦に動かした。
自分では動いたのかどうかわからなかったが、青年はまた微笑みながら頷く。
どうやら伝わったようである。
頷いた彼の目を見て、少女はぞくっ、とした。
寒気のようなものが少女を襲う。
目が紅かった。
その青年の目は、深紅だった。
人か、化生か。
だが何故だろう。
どこかであった気がする。いや、気がしただけかもしれない。
でも、とても安心できた。
「さて・・・・・」
紅零は少女に微笑むと、二匹に向き直った。
「ぎぃ、ぎゃぎゃ」
稲妻の一撃を受けた方が威嚇する。
どうやら相当怒っているようだ。
紅零にあからさまな憎悪を向けてくる。
「お楽しみのところ悪かったが」
だが、紅零はにぃと口元を歪めただけであった。
「続きは無しだ」
そう言うと、二匹の視界から消えた。
「ぎぎゃ？」
二匹は周囲を見渡す
「遅い」
稲妻を受けたほうの一つ目鬼の、左脇腹がえぐられた。
「ぎ、ぎぎぎゃぁあああ」
耳障りな悲鳴が辺りに響く。
えぐられた肉片は、びくんびくんと脈動を続けている。
それを無造作に捨てると、紅零はもう一匹めがけ疾った。
「ぎぃぃいや」
一鳴きするとその一つ目鬼は、正面から紅零を受け止めた。
「へぇ」
感嘆の声を洩らす紅零。
「ただの下等な鬼・・・ってわけでもなさそうだな」
そう言いながら、掴まれた両腕に力を込める。
ぼき
骨の折れる音がした。
「ぎぃひ」
だが、鬼は一声上げただけである。
紅零を掴む力が弱まる事はない。
「何？」
予想外であった。
下等な鬼と思ったが、随分強化されているようだ。
「ちっ」
おもわず舌を鳴らした。
「ぎ、ぎぎゃぁ」
背後から、脇腹をえぐられた鬼が迫ってくる。
「再生・・・したのか」
呪力を込めた一撃を見舞ったはずであった。
そう簡単に再生されるはずがない。
だが、現に鬼は自分の背後に迫っている。
だんっ
背後の鬼が空中に躍り出た。
「ぎぃやぁあああ」
上空からこの頭を刈るつもりらしい。
相変わらず、腕は掴まれたままだ。
―ならば・・・・・
「那由他っ」
紅零が叫ぶと、彼の懐から何かが飛び出した。
密教法具三鈷のような形をしているそれは、回転しながら、頭上の鬼の額へ直撃する。
「ぎ、ぎぎぎゃ」
空中で姿勢を崩した鬼の爪は、紅零の左方をかすめていった。
その瞬間、紅零の腕を掴む鬼の力が僅かに弱まった。
べぎぃ
「ぎぎゃががぎゃぁあああああああ」
鬼の腕を無理矢理に引きちぎると、彼は空から降ってきた愛刀を左手に掴む。
刀といっても刃がない。柄だけのように思えた。
しかし、紅零がそれを掴むと、みるみるうちに先端から光の刃が生じる。
紅く、そして黒かった。
「呪剣、那由他」
紅零は呟きながら目の前の鬼二匹に向き直った。
「手加減無しだ・・・・今度こそ壊す」
ひゅっと跳躍する紅零
がきぃ
鬼の爪と那由他がぶつかり合う。
「随分とまぁ、頑丈な爪じゃないか」
「ぎぃぎゃ」
二匹目がまた背後に忍び寄ってきた。
「だが、知能は猿並みだな」
言ったか言わぬか、剣を爪から離すとその反動で紅零は、後ろへ飛んだ。
背後を見ようともせずに、右足を蹴り上げる。
「ぎぃぃぃぃ」
背後の鬼の鳩尾らしきところに紅零の右足がめり込む。
すっと足を引き抜くと、今度は振り向き様に那由他を振るった。
ざしゅ
蹴りを喰らった鬼の、右肩から左太腿にかけてが、ざっくりと割れた。
断末魔の叫びを上げられる前に喉をも掻っ切る。
それでその鬼は終わりだった。
「ぎぃ、ぎぃぃぎゃあぁあ」
仲間を殺されて怒り狂った一つ目鬼が、紅零に向かってくる。
しゅっ
那由他を振るう。
「ぎゃぎ」
鬼も爪を振るう。
だが、今度は那由他の光刃が爪ごと鬼を真っ二つにする。
「ぎゃがぁあああああああ」
後には叫び声だけが残った。
だが、その叫び声すらも雨音にかき消され、やがて消えた。
目の前の光景を、少女は信じられないと言った様子で見ていた。
時間にしてどのくらいであろう。
瞬きでもしたら終わってしまいそうだ。
まるで舞うように、青年が鬼と戦っている。
見れば、青年は鬼が決してこちらを向く事のないようにして闘っていた。だがその気遣いは、杞憂となった。
下等な鬼だからだろうか。
もはや少女を盾にしてやる、などといった知恵も回らないようだ。
ふと、少女は自分が随分疲れていることに気付いた。
目の前の光景を見て、忘れていたらしい。
最後に、鬼が真っ二つにされるのを、遠のく意識の中で少女は見た。
まだ、雨は降り続いている。
一つ目鬼たちはもう動かない。
那由他を懐にしまうと、紅零は少女の方へ歩みを進めた。
少女の顔を覗き込む。
ふっと何かが頭をよぎった気がした。そう、気がしただけだ。
気を失っているようで、呼んでも返事はない。
「村が近いといいんですけど」
紅零はぽつりと呟くと、少女を抱き上げる。
「それにしても・・・・・・」
また少女の顔を見た。
「あれほどのものを操るとは」
あれほどのものとは、もちろん少女が武尊と呼んだ巨大な何かである。
式神か何かの類だろうか。
それにしては、何処か雰囲気のようなものが違う。
しかし、それよりもあの下等とはいえ強化された一つ目鬼と対等、いやそれ以上に戦ったというのが驚きであった。
身体への負担も相当なものだろう。
「とにかく、村を探さないと」
雲の隙間からはいつの間にか、青空が帰ってきていた。
「ぎぃ、ぎぎ」
一匹の一つ目鬼が立ち上がった。
その首と胴は離れている。
右腕で己の首を持っていた。
仲間の二匹は、無残にもぬかるんだ地面に熔けかけている。
「ぎぃ」
再生が間にあわないのだろう。
鬼はその首を胴に無理矢理押し付けた。
じゅる
「ぎぎ、ぎぃ」
首と胴は、何事もなかったかのように馴染み、そして繋がった。
「ぎゃぁ、ぎゃぎゃ」
弔いの言葉であろうか。
二匹の残骸に声をかけると、鬼は木を飛び移りながら山の奥へと消え去った。
少女を抱えながら紅零は歩いた。
雨は止み、眩しいほどの光が周囲を包んでいる。
しばらく歩くと眼下に村が見えた。
村にしては大きい。
町と言ってもよさそうだ。
「あの村でいいんでしょうかね」
答えはない。
まだ少女は気を失ったままだ。