燃える。
 狂気に侵された紙が燃える。
 緋色の叫びをあげながら燃える。
 赤く、紅く、私の手の中で燃えてゆく
 灰になったソレが、風に舞った。
 満月に彩られた空へ、高く、高く吸い込まれてゆく。
 ふと、足元から呻き声が聞こえた。
 あぁ、なんだ。
 まだ、死んでいなかったんだ。
 「痛い?」
 痛いよね。
 「大丈夫、すぐ終わらせてあげるから」
 鈍い音があたりに響く。
 呻き声はもう聞こえない。
 「・・・・」
 私は、与えるものだ。
 惑わされし者たちに、死という名の安息を与えるものだ。
 そう、それが、私の使命、私のすべきこと。
 だけど。
 私は、満ちた月を見上げた。
 綺麗な、月。
 あの夜も、こんな綺麗な月だった。
 ・・・・あれ?
 私、泣いている。
 そっか。
 うん、きっとそうかもしれない。
 あの夜だけは、私にとって特別だったから。
 そう、たとえ目的は一緒だったにしても、それは使命ではなく約束として果たした最初で、最後の夜だったから。






 雫尽月光満





 燃える。
 空が燃える。
 満月を間近に控えた月が放つ異界じみた光。
 それすら、今宵の空ではろうそくの炎よりも劣って見えた。
 空を焦がす炎が、よりいっそう勢いを増す。
 「なんて綺麗なんだろう」
 やがて灰になる町の中央に立ち、男は呟いた。
 鼻腔いっぱいに広がるのは、家の焦げる匂い、木の焦げる匂い、ヒトの焦げる匂い。
 「そして――――――」
 黒焦げの何かを踏みつけ呟いた男の口元は、
 「なんて心地良いんだろう」
 くっきりと歪んでいた。


 燃える。
 空が燃える。
 満月を間近に控えた月が放つ異界じみた光。
 それすら、今宵の空ではろうそくの炎よりも劣って見えた。
 空を焦がす炎が、よりいっそう勢いを増す。
 「なんて綺麗なんだろう」
 やがて灰になる町を遠くに眺めながら、女は呟いた。
 鼻腔にかすかに広がるのは、家の焦げる匂い、木の焦げる匂い、ヒトの焦げる匂い。
 「そして――――――」
 黒焦げる町を見つめる女の口元は、
 「なんて心地悪いんだろう」
 うっすらと歪んでいた。


 港町、アルベルタ。
 活気に溢れる商人と船乗りたちの町も、今は夜の闇に満ちた月の光をかすかに映すばかり。
 「で、その町が燃えた原因は不明なんだとさ」
 何杯目かの麦酒を喉に流し込みながら、ヒゲ面の商人が語る。
 「はぁ、おっそろしい話だねぇ」
 給仕の運んできた出来たての焼き鳥をほお張りながら、筋骨たくましい船乗りが相槌を打つ。
 そこかしこの酒場での今宵の酒の肴は、アルベルタ近郊の町が一夜にして灰になったという話だった。
 「だけどよ、こいつは内緒の話なんだが・・・・・」
 商人は用心深くきょろきょろと辺りを確認する。
 酔いのまわった酒場では、誰も他人の話に耳を傾けようとするものなどいない。
実際には何も見ていないのに、周囲を見渡すフリをする商人の姿はいつものことだった。
 「もったいぶらずに言えって」
 そして船乗りが先を促すのもいつものことだった。
 「まぁ、そう急かすな。いいか、誰にも言うなよ?」
 「はいはい、わかってる」
 「実はよ、これは警備隊の奴に聞いた話なんだが」
 曰く、町が燃えたのは人為的―恐らくは魔術によって―である。
 曰く、それは一人の男によって成された。
 曰く、男の姿はウイザードだったという。
 まるで、自分が警備隊の一員で、実際に現場を見たとでも言うように男は熱を入れて喋った。
もっとも、傍から見ればただの酔っ払いの戯言だったが。
 「はぁ、でも人相は割れてないんだろ?」
 「見た奴が言うにはメガネをかけた優男だったとかどうだとか」
 「その話、詳しく聞かせていただけませんか?」
 突然の闖入者。
 酔っ払い二人の視線の先にいたのは、一人のウイザードだった。
 「ヒューッ」
 船乗りが感嘆の口笛を吹く。
 「こりゃまた随分とべっぴんなお嬢さんじゃないか」
 「お褒めをいただけるのはうれしいですけど」
 酔っ払いを見つめるウイザードの目は涼しげだ。
 「つれないねぇ、お嬢さん。まぁ、座んなよ。立ちっぱなしじゃ疲れるぜ?」
 商人が空いた椅子を引きながら言う。
 「それだけ、詳しいお話をしていただけるんですか?」
 「あぁ、いくらでもしてやるさ。それこそ夜が明けるまでなぁッ」
 けたけたと笑う二人を、それでもウイザードは冷めた視線で見つめていた。
 「申し訳ないですけど、私、酔っ払いの相手は趣味じゃないんです」
 「趣味じゃないんです、だぁ?おいおい、お嬢さん、こんなおっさん二人に話しかけてんのにそりゃないだろ?」
 「へへ、まぁいいから座れって」
 強引に船乗りはウイザードの細い腕を掴んで椅子に座らせようとした。
 「・・・・・・・・・・・・・・・、へ?」
 座らせようとしたのだ。だが、ウイザードの身体は揺らぎもしない。
 「なに遊んでんだよ、お前」
 商人が下卑た笑いを船乗りにむける。
 「違・・・、こいつ、全然動かねぇ」
 「んなわけあるかよ・・・・・・、ん!?」
 船乗りとは逆の杖を持ったほうの腕―右腕だ―を掴んだ商人から笑みが消えた。
 動かない。
 華奢なウイザード一人が、男二人に引っ張られているというのに、微塵も動かない。
 「いい加減、離してくださいませんか?」
 冷たい声が、二人の耳に響く。ただそれだけなのに、酔っ払い二人は心臓を氷水に漬けられたかのような錯覚に捕らわれた。
 反射的に二人は腕を放す。このまま掴んでいてはとんでもないことになると、直感で感じたからだ。
 実際、二人の判断は正しい。手を離すのがあと5秒遅れていたら氷漬けになっていたに違いない。
 「ありがとうございます。それでは、よい夜を」
 踵を返して、ウイザードは酒場から出ていく。
 酒場は相変わらずの活気だ。
 しかし、商人と船乗りの席だけはその後も水を打ったように静かなままだった。


 
 明るすぎる月に照らされた道をウイザードは歩く。
 コツコツと、人のいない裏通りに自らの足跡だけが響いていた。
 「・・・・・お酒臭い」
 かすかに衣服についた酒の匂いをみとめて、ぽつりとウイザードは呟く。
 酒場の酔っ払いから有益な情報を得るのは、滅多にあることではない。でも、たまにはその滅多があることがある。
 メガネの優男。
 あの酔っ払いたちから、これ以上のことはどのみち聞けなかっただろう。
 「でも、今回は・・・・」
 ビンゴ、そう思って間違いはあるまい。
 『彼』を探し続けて、約一年。『彼』の痕跡を追い続けて、約一年。ようやく見つけた。
 やっと、会える。
 やっと、約束が果たせる。
 「何処にいるの・・・、グエン」
 円い、あまりにも円すぎる月に向けて呟く彼女の貌は、ほのかに歪んでいるようにも、泣いているようにもみえた。


 美しい。
 白い石畳に広がっていく液体の中央に男が立っていた。
 液体の正体は血だ。
 月明かりによって幻想的に輝く血糊の濃厚な香り。それが男の鼻腔を、気分を満たす。
 男の足元には、女のカタチをしていたものが倒れていた。まだ、息があるのかしらないが、びくんびくんと手足を震わせている。
 だが、喉は潰してしまったからもう声は出せないだろう。
 男は両手についた血を舐めとり、陶然として微笑む。
 やはり、自らの手でやるのが一番だ。
昨晩のように、魔術を使ってみると楽だけど、あれでは数はこなせても、実感が伴ってこない。
 「これで、593人目・・・・・・。ゲヘナ様、あと407人です。そうすれば・・」
 『そうすれば、君は真理にたどり着くことが出来る』
 「えぇ、僕はやりますよ。ゲヘナ様、貴方との約束ですからね」
 『そうとも、約束だ、グエン君。必ず私が君を真の理へと導いてあげよう』
 「あと、407人、あと・・・・・407人」
 血だまりのなか、呪詛のように言葉を繰り返す男の口元は、このうえもなく歪んでいた。

 


 そして、二人は出逢う。




 偶然というのは時に必然から生じるのだろうか。
 裏通りの先に広がる光景。
 ぽっかりとまるで何処かから切り取って貼り付けたような光景。
 血だまりのなか、男が立っている。
 月明かりに映し出された顔は、見間違うはずがない。メガネをかけた、一見して優男。
 彼だ。


 出逢うべくして出逢うのか、それとも運命という名の介入があるのか。
 裏通りから出てきた人影。
 たまらなく懐かしい、まるで陳腐な物語のような展開。
 月光の下、女が立っている。
 満月に映し出された顔は、見間違うはずがない。月光に煌めく長い金髪、線の細い身体。
 彼女だ。


 どちらとも言わず、二つの影が歩き出した。
 コツコツとリズミカルな音がアルベルタの空に響く。
 どちらとも言わず、二つの影は止まった。
 「久しぶりだね、イングリッド」
 もはや狂気じみた微笑みが男の顔に張り付いている。
 「えぇ、貴方が学院を血まみれにした日以来かしら?」
 どこか狂気じみた微笑みが女の顔に張り付いている。
 「ははは、そういえばそんなこともあったね」
 「今でも語り草よ、優等生だった貴方があんなことをしでかしたんだから」
 「優等生?よく言うよ、イングリッド。その言葉は君の為にあると僕は思うけど」
 「お褒めいただいて光栄だわ」
 まるで世間話をするような、穏やかな語り合い。
 ここがゲフェンの魔法学院だったなら。そして一年前だったなら。
 だけど、過ぎ去った時は戻ってはこない。
 それに歯車は、あの時既に狂っていた。
 女―イングリッドはそう思う。
 「随分、手馴れてきたんじゃない?」
 「うん、最初はだいぶ戸惑ったんだけどね。今じゃほら、ご覧の通り」
 自分の歩いてきたほうを振り返りながら、男―グエンは笑った。
 「やっぱり、魔術なんかより直にやったほうが、楽しくってさ」
 両の手をポンと叩くと、乾いた血糊がパラパラと落ちていく。
 「驚いた。あの日のあなたはおどおど泣いていたのに」
 「こういうのも、慣れちゃうとどうってことないんだよ」
 「そうかもね」
 いとも簡単に肯定するイングリッド。
 「相変わらずだなぁ、君は」
 「そうよ。私は何も変わらない。私は私だから。でも、あなたは違う」
 「僕だって何も変わっちゃいないさ」
 「本のチカラとは言え、殺人嗜好が板についたように見えるけど」
 「アレはきっかけに過ぎないよ、イングリッド。僕は僕の意志で行動している。
まぁ、行動力という点で言ったら、確かに僕は変わったかもしれないね」
 「人殺しが躊躇なく出来るくらいには?」
 「そういうこと」
 グエンは薄く笑った。陰惨な、亀裂のような笑みだった。
 「もう何人、殺ったの?」
 「あそこに転がっているので593人目。まぁ、町ごとやれば数稼ぎは結構楽なんだよ」
 「そうみたいね」
 また、簡単に肯定するイングリッド。
 「君も結構怖いなぁ。人が死んだって言うのに」
 「狂ってるのかもね、私」
 「正気と狂気なんて紙一重さ。いや、だいたいそんなものに縛られてるほうがおかしいよ」
 「それじゃあ、おかしいのは世間一般の罪なき人々って事かしら」
 「さぁ、それは僕の領分じゃないからね。だけど、真理さえ掴めばそれもわかるかもしれない」
 グエンはさも真面目にそういった。
 「世界の真の姿。真理、真の理。グエン、貴方、そんなもの本当にあると思ってるの?」
 「あるさ。だからこそ、僕ら魔術師は存在する」
 世界を暴け、世界を識り尽くせ。
 「そうなんだ。正直、私にはどうでもいいことだけどね」
 識をもって式を紡げ。
 「じゃあ、君はなんで魔術師なんかになったんだい?」
 そして、到達しろ、真の先、いや果ての理へと。
 「さぁ、自分でもよく分からないわ」
 一瞬悩むような仕草をみせ、イングリッドは答えた。
 「それに、今はそんなことを考える意味、ないから」
 「どうして?」
 「私はあなたを探してた。そして、見つけた。なら・・・・・・・・」
 やるべきことは決まっている。
 「なら?」
 「その前に一つ答えて、グエン」
 イングリッドの瞳が、月光を映す。よく研がれた刃のように、それは冷たく、鋭くグエンを射抜いた。
 「約束、覚えてる?」
 「約束?」
 「そう、あなたが学院を出る3日くらい前にした約束」
 約束。
 グエンは思い出そうとした。ぱっと出てこないとしても、一年前の記憶ぐらいならすぐに呼び覚ますことができるはずだ。
 「・・・・・・・ッ?」
 だが、それは叶わない。だって、グエンの中身は空っぽだったから。
 がらんどうの、それは例えるなら空き瓶。
 グエンという名のビン。それは、確かにグエンというカタチだけど、その中身は空っぽだ。
 虚ろな空間。
 自分を形作る知識や記憶は在るのに、そこに自分は亡い。
だから、昔のことは思い出せるけど、それはどこか色のない不確かな光景。
何かを喋っている自分がいるけど、何を喋っているのかはわからない。
 「覚えてないみたいね。でも、その方がいいのかな」
 ほんの少し残念そうにイングリッドは呟いた。
 「あなたはもう、あなたじゃないってことがわかったから。だから、私は何の躊躇もなく殺れる。グエン、あなたを殺れるよ、私」
 一瞬、小さな微笑みがイングリッドの顔に浮んだ。
グエンの虚ろな記憶にもない、それはとても哀しげで、雑多の感情が凝縮した微笑みだった。
 「何を言ってるんだ?イングリッド」
 「聞こえなかったの、グエン?私、あなたを殺すの」
 「なんで、なんで君が僕を?」
 『殺せ』
 「ゲヘナ様ッ?」
 『殺せ、その娘を殺せ』
 「そんな、僕にできるわけ」
 『なにゆえ?なにゆえそんなことを言う、探究者グエン?
たとえその娘を君が好いていたとしても、命とは平等なものだ。
さんざん殺しておいていまさら、目の前の娘一人殺せないのか?
真理を掴み取ろうという君の決意はその程度のものか?』
 「違う。・・・・・・・・違う、違うッ!僕は、僕にはッ!」
 「何をブツブツ言っているの?」
 冷めた視線を向けながらイングリッドは語りかける。
 「イングリッド、君には聞こえないのか?!彼の声が、偉大なる真理の探究者、いや、真理の到達者たる彼の声が!」
 『聞こえぬさ、聞こえるわけがないだろう、ただの俗物に私の声は聞こえない。
君は選ばれし探究の民。だからこそ、私の声は君に届き、君の声が私に届く』
 「・・・・・・・・そう、そうですね。僕は探究者。真理を掴むもの。なら・・・」
 可哀想な人。
 「なら・・・・イングリッド。そうだよ。うん、そうだ。僕は、僕はね。僕は君を殺さなきゃ。
君に殺される前に僕が君を殺すんだ。そう、真理へ辿りつくために。あぁ、なんだか、すごくぞくぞくしてきたよ」
 <黒衣の書>に惑わされた、可哀想な人。
 「ねぇ、君の中身はどんなに綺麗なんだろう?引き裂いて、刳り抜いて、確かめなきゃ」
 約束。
 「イングリッド、聞いてる?さあ、破壊し合おうよ」
 約束は果たされたとき、初めて約束として実を結ぶ。
 「ねぇ、イングリッド!」
 そして、これはまたイングリッドに課せられた使命。
 「いいわ、グエン。望みどおり―――――」
 夜の闇、満月に照らされた二人の顔は、とても穏やかで、
 「私たち二人だけの舞踏会の始まり」
 凄絶に歪んでいた。

 

 イングリッドの杖が空を切り裂き、裂け目が出来た。
 裂け目から、世界の裏側から古代精霊が飛翔する。
 刹那の詠唱から繰り出される召喚魔法、ソウルストライク。
 おぞましい古代精霊たちが、無限の生を刹那の現世で謳歌する。
 避けきれない。直感的にグエンは感じた。古代精霊のスピードは現世のしがらみを越えている。
 とは言え、グエンにとっては別に避ける必要もないのだ。ないのだが、それでは芸がない。
 「ソウルストライク」
 左手に書を持ち、右手で印を切る。
 世界の裂け目から古代精霊が顕現した。
 光の塊たちが二人の中央でぶつかり合う。
 引き裂きあい、喰らいあう古代精霊たち。光の乱舞を経て、精霊たちは世界の裏側へ飛散する。
 「相変わらず見事なもんだね」
 「あなたもね」
 二人は笑いあった。
 満ちた月に雲がかかる。一瞬だけ明るすぎるアルベルタが夜闇の静寂を取り戻した。
 月が、またアルベルタを照らす。そして、二人の疾走は始まった。
 白い石畳を飛ぶように、二つの影が踊る。
 市街から埠頭へと向かう二人の姿は、酔っ払いの目には二匹の獣が戯れに追いかけあっているように見えたかもしれない。
 海風が吹きつける夜の埠頭。人の姿はない。舞踏会にはもってこいな場所だ。
 「準備運動は終わり。さぁ、これからが本番。楽しい夜会の始まり」
 息切れした様子もなく、イングリッドは10メートル先に居る相手に囁いた。
 「なら、開幕を告げるのは派手な方がいいかな」
 高らかと本を掲げ、グエンは空へ向かって宣言する。
 「我が名はグエン。識を持って式を編むもの。ソラの理を垣間見るもの。最果てのソラより来たりしホシのカケラよ―――」
 大魔法、メテオストームの詠唱が始まった。
 「無防備」
 だが、イングリッドはお構いなしにグエンへと攻撃を開始する。
大魔法は威力と引き換えに、詠唱時間が長い。そこに生じる隙は、絶望的に大きい。
 「コールドボルト」
 大気の水分が凝縮し、圧縮し、氷結。
 大魔法より遥かに短時間な詠唱を経て、いくつもの尖った氷柱がグエンの頭上へと顕現した。
 「落ちろ」
 鋭い切っ先がグエンに迫り落ちてくる。詠唱を止めなくては避け切れまい。
 「甘いよ、イングリッド」
 グエンがニコリと笑った。死を前に、それはあまりに穏やか過ぎる。
 「・・・まさか」
 満月に彩られた明るすぎる空を引き裂いて、星は降って来た。いくつもいくつも。
 暴力的な熱量を伴ったメテオが、氷柱という氷柱をことごとく融かし、イングリッドに襲いかかってくる。
 思考を疾走させ、着弾点を見極め、回避行動をとる。今、ここに存在する絶対安全領域へ身を躍らせ、イングリッドはグエンを睨んだ。
 「詠唱が早すぎるって言いたいのかな?」
 見透かしたようにグエンがせせら笑う。
 「別に。本のチカラでしょ。そう、あなたがその手に持っている<黒衣の書>のチカラ」
 「ご名答。ふふ、すごいんだよ、これ。杖なんかよりよっぽど魔力の伝導がいいんだ」
 まるで見せびらかすように、グエンは<黒衣の書>を掲げた。
真っ黒な何物かの皮によって装飾されたそれは、見ているだけで吐き気のするような代物だった。
 「本を持つのはプリーストとセージの特権だと思ってたけど」
 「連中だけにもたせるなんてもったいない。それに、彼らの本たちじゃ、これには叶わないよ」
 「<黒衣の書>。数百年前の魔術師、ヴェルドナ=ゲヘナが書いたという異端書、だったかしら?」
 「そう、その通り。これはね、世界の真理へ到達するための最高の教本なんだ」
 「・・・・中身は確か、口にすることも憚れるようなおぞましい記述に満ち溢れ、それを読んだものは正気ではいられなくなるとか。
そう、あなたが学院から姿を消す直前まで、読んでいたのもそれ」
 「僕は正気さ。それに、さっきも言ったけどこの本はきっかけに過ぎない。僕と彼を結び付けてくれたきっかけにすぎないんだ」
 愛しそうに本を、黒衣の書を撫で回すグエンの姿をイングリッドは嘲笑った。
 「堕ちたものね、グエン。そんなものに頼らなきゃ、今のあなたは自分の拠り所すら見つけられない」
 「何とでも言えばいいよ、僕は満足してる。
からっぽだけど、満たされているんだ。だって、あと407人殺せば、真理へたどり着けるんだよ?イングリッド」
 「可哀想な人」
 呟き、イングリッドは術式を織る。
 「本当に可哀想な人よ、あなた」
 「だったらどうするんだい?」
 術式が完成した。
 「殺してあげる」
 「無理だよ、イングリッド。だって、僕のほうが強いもの」
 「・・・ストームガスト」
 氷雪の儀式。大気が絶対零度に震え、氷の殺意がグエンを襲った。
 「だから無理なんだって」
 黒衣の書をかざして、グエンはただそこに立っている。ただそれだけなのに、氷の殺意はグエンに届かない。
 「障壁・・・」
 「さぁ、これでわかっただろ?ちょっと早いけど舞踏会は終わり」
 グエンはまるで愛玩動物を驚かさないように気を遣うかの如く、ゆっくりとイングリッドに迫ってきた。
 「大人しく僕に殺されてよ。大丈夫、ゆっくりと、地獄の痛みの中で殺してあげるから」
 唇の端を吊り上げてグエンは笑う。
 「・・・・・・」
 何も言わず、イングリッドはその場に立ち尽くしていた。
 「そうだ、だけど暴れられると困るからね。その杖は、燃やしてしまおう」
 グエンが言い終わると同時に、杖から炎が噴出した。主人との別れを嫌がるかのように杖が業々と悲鳴を上げる。
 「早く放さないと火傷しちゃうよ?」
 グエンの言葉を無視して、イングリッドは杖を掴み続けた。荒ぶる炎によって杖は既に炭の様相を見せている。
 「こうなったら、もう君は魔術を使えない。杖なしの魔術師なんてたかがしれてるからね」
 「満足?」
 「ん?」
 「杖を燃やして、私から魔術を奪って、満足?」
 「全然、全ッ然足りないよ。まだ僕は、君に触れてさえいないんだ」
 そう言って、グエンはイングリッドの腕を掴み、自らの元へ引き寄せた。
 「綺麗だよ、イングリッド」
 月光に煌めく金髪を撫でつけながら、グレンは言った。
 「あら、うれしい」
 無感情にイングリッドは応える。
 「こんなに綺麗だと、どう解体そうか迷っちゃうよ。まず、腕を潰そうか。
それとも足の腱を切って歩けなくするのもいいなぁ、それから―――――」
 「お腹に大穴を開けるって言うのも風情があると思うわ」
 その瞬間、グエンの背中から血飛沫が舞った。
 「な・・・・・・」
 イングリッドの手が、グエンの腹部へそっと当てられている。
 「コールドボルト、ゼロ距離発動。避けられないよね、流石に」
 黒衣の書の障壁すら砕き、氷柱がグエンを貫いていた。
 「ぐ・・・あ・・・・、な・・ぜ・・・・?」
 「何故、魔術が使えるかって?」
 よろめくグエンを地面へ寝かせると、イングリッドは懐から一冊の本を取り出した。
 「!・・・・、そ・・・んな、なんで君が・・・それを」
 満月に禍々しく光るのは、何物かの皮によって装飾された一冊の黒い本。
グエンの持っている本が放つ狂気より、尚その本は狂気に満ちている。
表紙を見ただけで気が触れそうな代物、この世にあってはならない悪夢の顕現だ。
 「そう、<黒衣の書>よ。それもあなたが持ってる写本とはワケが違う。全ての写本の原本、通称『ダーク・ダーク』」
 死へ向かって呻くグエンを尻目にイングリッドは続けた。
 「ヒトが生み出した偉大な発明の一つに、文字があるわ。
文字は、記憶を、想いを、記録として刻むことができる。
そう、例えば本はね、そこに著者が居なくても、そこに著者が居るの」
 ―――イングリッド、一つ頼みがあるんだ。
 「そして、魔術師が書いた本って言うのはまた特別。
そこに並べられた文字一つ一つの配列に意味がある、言わば魔方陣。
読んだものは、それだけで魔術師の術中に捕らわれてしまう」
 ―――え、なんか疲れた顔してるって?・・・はは、そうかもしれない。
 「特に、あなたが見つけてしまった<黒衣の書>なんて、最悪の代物」
 ―――ちょっと面白い本見つけちゃってさ。ちゃんと寝ろって?うん、わかってる。
 「真理探究の名の下に、殺人を犯し続けた魔術師、いえ、殺人嗜好者ヴェルドナ=ゲヘナ。
その彼が死の直前に書き綴った、言わば彼の殺人欲求の塊よ」
 ―――もし、もしもだよ。僕が真理を追い続けて人の道を踏み外したりしたらさ。
 「あなたにも聞こえたんでしょ?彼の声が。
『殺せ、殺せ、千人殺せ。そうすれば、必ず君を真理へ導いてあげよう。約束だ、約束だとも』って」
 ―――僕を殺してくれないかな。
 「でも、それはただのまやかし。彼のあくなき殺人への残留思念」
 ―――頼み、じゃなくて、約束してほしい。必ず。
 「・・・は・・・・・・・・・・・ははっ」
 喉を満たす血を震わせながら、グエンは笑った。
 「もう、・・・・何も聞・・・こえないよ、あの人の声が・・・・・聞こえないんだ」
 「いいよ、グエン。もう、終わったから」
 「・・・イングリッド。・・・・君は一体、・・・何者なの・・・・・・?」
 満月に輝いたのは、果たしてなんだったのだろう。彼女の金髪か、それとも涙か。
 「そうね。あなたになら私の本当の名前、教えてあげる」
 「本当の・・・名前?」
 「私の本当の名前は、イングリッド=ゲヘナ」
 「・・・・・・ま・・・さか」
 「狂気の大量殺人者ヴェルドナ=ゲヘナの末裔にして、<黒衣の書>のオリジナル『ダーク・ダーク』の現所有者。そして―――」
 イングリッドはグエンの手からゆっくりと<黒衣の書>を取り上げた。
 「全ての写本を滅ぼす者」
 <黒衣の書>から、ぼっと炎が上がった。狂気に侵された紙が、見る見るうちに灰へと変わってゆく。
 「そりゃ・・・びっくりな話だね」
 写本の最期を看取って、グエンは満ち足りたように微笑んだ。
 「ねぇ、イングリッド。・・・僕、思い出したよ。・・・・・君との約束」
 「そう」
 「そっけないなぁ・・・・、イングリッド。・・・・最後くらい、優しくしてよ」
 氷柱に貫かれたグエンの身体は、終わりの刻を迎えようとしていた。
 イングリッドはグエンの傍にしゃがんで、その顔を覗き込む。
 「はは・・・、やっぱ・・り、綺麗だよ、イングリッド」
 それには答えず、イングリッドはグエンの口元にそっと手をやった。
 「私、あなたのこと嫌いじゃなかった」
 「ん・・・、光栄だ・・・な」
 「この丸めがね、もらってもいい?」
 「売るんじゃないだろうね」
 「まさか」
 こんな普通の会話をもっとしたかったのに、それももはや叶わない。
 「・・・・・・ねぇ、イングリッド。・・・・・・約束、・・・守ってくれてさ・・」
 イングリッドは立ち上がった。
 異界じみた光を放つ満月。それを見つめる彼女の口元は、
 「ありがとう」
 小さく震えていた。







 †あとがき†
 何か、暴走しました。好き勝手もいいところ。
 もう、最高にラグナじゃないです。
 いや、うん、笑うしかない。
 あっはっはー。
 ・・・・・・。
 ゴメンなさい。