Lunatic


やく‐そく 【約束】
その実現が確実視されていること。
前から決まっている運命。宿命。因縁。
[類語] 取決申合契誓固指切約定契約協約協定約盟約誓約確約保証
公約口約内約黙約黙契約取決申合言合契誓請合規則決定掟不文律


……一年前

彼は薄汚い暗闇が、万華鏡の光の中を交錯するような処で一人静かに佇んでいた。
徐に取り出したのはタールを八rニコチンを〇.七r含んでいる紙巻煙草だ。
黒い背景色の上で白く浮き上がった煙草の先端は蝶のように微動し、ゆっくりと紫がかった彼の唇に吸い寄せられていく。
暫く、石を擦るような摩擦音と共に赤橙色の炎が静かに震えながら悶える。
灰色の煙は顔を両手で押し付けこね回すような仕草をしながら徐々に霞んで消える。

漸く彼の手の震えは止まり、顔には若干の余裕が生まれだしていた。
だが、しかし……一体彼はどれだけの時間、此処で、この場所で待ち続けなければならないのだろう?
赤朽葉色の外套のポケットには真鍮の懐中時計が切れ掛かった電池と針と共に無意味な時を刻んでいる。
煙草の灰が靴に当る、足の底は既に硬くは無く、粉末状の……いや、フェルト状の粉が積もっていた。
吸い尽きた煙草を遠くに投げ捨て、それまで閉じていた瞼を、まるでプレゼントでも期待している子供のようにゆっくりと押し広げる。
だが視界は依然として沈黙し、彼は眉間に皺を寄せると蹲る様に顔を膝に押し付けた。

……彼女の悲報はそのあとすぐに訪れた。


……一年後

まだ大地は純白のままで、宙に浮かぶ雲が無ければ大地と天の区別が付かないほどの空間で、
私は一人、太陽光に焼かれて真白になっている梨を口に運んだ。
淡い水気と共に気持ちの良い音を響かせる梨。傷口は白く、半透明な乳白色の果汁は滑るように滴り落ちた。
口に頬張った梨を噛み砕きながら、私は周囲に目をやる。
真白の地面……真白の雲と真黒の雲の陰……真白の太陽と真白の空は区別がつける事ができない。
そして一人だけ浮いている私と、一つだけ浮いている梨三分の二切れ。
付け加えるならたった今地面に落下した果汁数滴……世界はこれだけのようだ。

足元を掬い上げる風は、大地の熱気を帯ながら空高く飛翔してゆく。
何処までが空なのかはわからないけれど、それでも天は遥か彼方に存在し、私の瞳はその真白く肥大化してゆく射光に瞼を揺るがす。
常に一定の世界……風も……太陽も……大地でさえも、常に均衡を保ち続ける。
甘い風は何処までも甘く、焼け付く日差しは何処までも熱く、若干粘度のある大地は呼吸困難を起こすことは無い。
変則的な動きを行っているのは、私と梨三分のニ切れと……今にも蒸発しそうな果汁数滴。
それから、果汁の上に覆いかぶさるように降り注ぐ私の頬を伝う水滴のみ。
汗だか、涙だかわからない、もしかしたら梨の果汁かも知れない。
だけど、どちらにしても違いは無い、この乳白色の液体ですら周期的に固定されたものかも知れないのだから。


……一一日前

名前を呼ばれている気がしました、しかし、髪の毛が蹲った膝に向かって伸びてゆき、
そこで接着しているので中々顔を上げることが出来ません。
髪を引き千切りながら私の目線はゆっくりと燃え上がりました……何度と無く呼ぶ声はそこで漸く止まりました。
……さん、非常に残念なのですが……。
彼の顔は幾度と無く繰り返している表情を私に向けます。
胸元で鈍く煌く銀十字が歪んだ私の顔を映し出して、その顔は私を見つめると小さな笑みを覗かせます。
非常に落ち着いた口調で彼は言葉を続けています、
右のポケットからは煙草の箱が顔を覗かせているけれど、中身はきっと空でしょう。

……彼は安らかに眠りましたか?……ええ、非常に安らかに……そう、そうですか……
言葉と時間が同時に途切れます、彼は気まずそうに目を伏せ、床の木目を数えるような仕草を繰り返し始めました。
気を落とさないで下さい……心配しないでください、大丈夫です……それなら良いのですが……

訝しげな表情をした彼は私の顔を凝視していました。
……どうしたのですか?……いえ、別に……
彼はゆっくりと私を……まるで今にも溶けてしまいそうな氷の塊でも見つめるかのように見据えて口を開いてこう言いました。
……貴方は……彼の死が悲しくは無いのでしょうか?……悲しいですよ。とても、ええ、とても……
私は彼の顔を見つめると仄かな赤色の花弁を噛む様な笑みを返します。だけど、彼の表情はとうとう巌のごとくなってしまいました。
……死んだのは貴方の夫、そして私の弟ですよ?
……ええ、分かっています……なら、その笑みは一体どういう意味を表しているのですか?
「……わかりません、それよりも梨を食べませんか…よく熟れていますよ」
彼は答えません、ただ俯いたまま首が折れた蟻のように靴の中で足を蠢かせているだけのようです。


……一一日後

ゆっくりと、しかし確実に彼は足を進めています、肋骨のような床は軋み、愛嬌のある泣き声を立てました。
「ねぇ、梨を食べませんか?」
頷いたのは彼ではなく私自身。
自らの懐から梨三分のニ切れを取り出してそれを、首を吊った人形のように宙に持ち上げて揺らしているのです。
口元には、猫のような、あの赤く染まった花弁……
灰色の影が斜めに頭を切り落とす、光のコントラストが目を潰し、床に広がる残影は私自身。
重い音と共に床にぶつかる梨三分の二切れ、衝撃で剥げ落ちた果肉は許容範囲でしょう。
始終それを見つめていた彼は同じように懐を探り、煙草取り出すのですが、既に中身は空だったようです。
手で小さく握りつぶされた煙草の殻は梨の隣に覆いかぶさるように落とされました。

「そういえば、あの人もその煙草……好きでしたね」
……双子だから、当然ですよ。
彼らはもう喋ることは出来ません、だけど私には彼らの言いたい事は全部聞き取ることが出来るのです。
「そうね、二人はとても対称的……」
弟は右に、彼は左に、私はその間に守られるように……。
砂を擦るような音と、奇妙な跡、歯軋りのような音に合わせ脈動する彼らの体。
「貴方達はどの辺りが一緒に繋がっていたのかしら……首?腕?足?胴?」
彼ら自らの腕を見つめ、そして目線を黒い蹄に合わせました、蹄は私の心臓に呼応するかのように小さく疼きます。
「そう……」

どこかギコチナイ二人は先走る私に追いつくように付いて行きます。
道は限りなく無限で、そこには遮る障害物などは何もありません。
私の腕、腹部、顔には無数の赤と黒が付着しているようですが、私自身はそれには気が付いてはいません。
彼らは右手、左手、それぞれの対称性を維持したまま私を挟む様に動き続けます。

「梨が三分の二切れ、空の煙草が一個の二つ……」
思わず私は歌を歌うように声を漏らしますが、それは甲高く響く風のようなウネリにしかならないようです。


……一日前

「煙草の空が一つと二つ……それも同じ物……」
「弟は直にやって来ます」
彼は狼狽した声でそう答えた。彼女は薄く微笑しているが、影は陽炎のように揺らめいている。
「貴方は私の腕を引き千切れますか?」
そう言いながら純白の腕を宙に掲げて絞首のような格好をするが、彼は重く黒ずんだ扉を眺めていた。

彼女の両腕は双子の彼らが潰れるほど強く握り締めている。
ゆっくりと引き千切られる腕は毛糸の編み物を解くように、簡単に外れていく。
筋肉と神経が脈打って、魚の跳ねるような音を鳴らすが、彼女は一言さえ喋ることは無い。
中からは赤い砂が零れ落ちた、彼女の右腕だったものは角ばった矛になり、左腕は氷のように鋭利な刃物となった。
彼らは終始無言の彼女の顔を見つめ、ゆっくりとその両足を持ち上げた。
再び魚の跳ねるような音が響き渡る。
その足だったものは黒く変色し、形を若干歪な足に挿げ替えた。

「私の棺桶は小さくて良い、四角い……正方形の桶はみんなに愛されますから」
両手両足が無い彼女はそこにそれが存在するかのように動かして見せた。
「私たちも喪に服す事にしました」
「最後に足にお別れを言わないとダメ」
ほんの少し戸惑った彼は彼女の足だった物に短い接吻を交わした、弟はそれをみてゆっくりと続いた。

一歩二歩……彼女から距離を取った彼らは、お互いに抱き合うような格好でその右腕と左腕をお互いに引き合った。
今度はシルクを破るような音、だけど中からは真っ赤な血が流れてくる。
骨も肉もちゃんとあったし、痛みもちゃんと感じるよう、彼らの顔には忽ち脂汗が滲み出して、声にならない音を打ち鳴らした。
ある程度引き伸ばされた腕を剣で一気に切断する。転がり落ちた右腕と左腕は、彼女の足と同じように黒く変色し形を変えてゆく。
続いて彼らは残った腕でお互いの足を落とす、勿論両足ではなく、右足と左足だ。
それらは頭となり体となり、彼らの接合部分であった黒い痼りは鈍い蹄に変化した。


……一日後

私の体は正方形で、床に仰向けに倒れている彼らの体は直立が不可能そうな歪な形になっていました。
やがて意識が戻った私たちは彼らの義手と義足を作り、切り落とした私の両手両足、彼らの片手片足を組み立てました。
一つに纏まったそれは馬のような形をしていて、恐る恐る触れるとやっぱりそれは馬でした。
私は彼らに抱きかかえられて黒く湿った馬の背中に乗り上げました。
両手も両足も無いけれど、私の意志に従うように元々右手、左手だったものはちゃんと動いてくれます。
彼らの義足義手も出来上がりました、本物の物よりも多少劣りはするけれども彼らは満足してくれているようです。

正方形の私と歪な彼らはゆっくりと外に出かけました。
外界は私たちの世界よりも広く、その世界は見慣れることがありません。

暫く長く続く道を歩いていたら、人のような蜘蛛を見つけました。
彼らを摘みあげて私はゆっくりと口の中に含んでみます。
……少し塩辛い煙草の味と梨を腐らせたような匂いに葦の味がしました。
果汁は真赤で、果肉は桃色、種子は真白で形は様々。表面は軟らかい膜に覆われています。

暫くすると、彼の弟が道がわからなくなってしまうと言いながら後ろを振り返りました。
私と彼も後ろを振り返ります。……確かに先ほどよりも希薄になった景色と記憶は若干の恐怖を植えつけて来るようです。
私たちは蜘蛛を突き刺して木に吊るして置く事でその問題を解決する事ができました。もし、迷ったなら彼らの印を探せば良い。
もし、最初の蜘蛛が朽ち果てても木に練り込まれた果汁は消えることは無いのだから。


……一秒前と一秒後

体は意外に重かった、おかしい、片腕と片足分軽くなるはずなのに、私の体は、鉛や砂鉄を仕込まれた砂袋みたいに重い。
彼女は予想通り軽かったらしく、不釣合いな体に不釣合いな笑みを浮かべて、
不釣合いな矛と剣を手にとって━━実際には手は無いのだけれど、まるで彼女の意思に従うようにそれらが呼応するので━━
黒い馬には立派な服を着せて、その上に彼女をゆっくりと座り込ませる。
……ようやく私の義足が完成した。鉄を焦がしたような、肉を焼くような匂いには閉口した。
体にめり込むように突き刺した新しい足は重く鋭くて、動かすだけで激痛を伴う。
振り回せば頭蓋骨は楽に割れるほどの重々しい動きを見れば、どれ程の痛みが反動で返って来るのか想像に難しくない。
……義手も完成したようだ。だが義手と言っても手の形をしてるわけではなく、
杖のようなものと腕が一体化しているような、くの字に曲がった棒切れみたいなものなのだ。
重さは……想像に任せるとしよう、義足と義手をつけた私が付けてない時よりも動きが歪なのは、きっとこのせいだろう。
彼女は私たちに枷をつけるつもりなのだろうか?

考えをめぐらせているうちに、やがて弟の義足も義手も完成した。
やはり形も同じ、大きさも重さもすべてが同じなのだ。
対称性を失わない限り私たちは永遠なのだと、彼女は笑いながらそう言った。
私も同じ考えである、しかし、それなら曲がりくねった彼女の両腕は既に均衡を失っているのでは無いのか?
黒色に染まった彼女はもう別人なのかも知れない。
何かの拍子に完全に均衡がずれて腐ってしまうかも知れない。

いや、もう考えるのはやめておこう。
今、私は彼女のすぐ傍にいて、弟も傍にいる。何故不満などがあるのだろうか?
不満ではない、きっと恐怖なのだ。この三人の均衡を打ち破る内部の力に対する恐怖なのだ。
……ならば、きっと守る事は出来ない、永遠に長く果ての無い道はないのだから、私たちも朽ちてしまうはずだ。

半分は鉛の体、ゆっくりと持ち上げ直立しようとするが、常にバランスを取らなければ転倒してしまいそうだ。
床を軋ませる蹄の音、彼女の意思なのか、それとも何か別の力なのか、私たちは追いすがるような格好でその後を追いかける。
振り返れば煙草の殻が二つ、殆ど朽ち果てているが、それでも一年前と同じ場所に落ちて白い雪化粧を帯びている。
その下には腐った真白の梨三分の二切れと真黒の種子に乳白色の果汁数滴。
体が軋む音で私は前に振り返る、先ほど一秒前に見た情景は既に蜘蛛の巣が掛かっている。

前にも後ろにも薄い乳白色の靄が立ち込めているが、私たちはきっと迷うことは無い。



━━あとがき━━

約束のお題をちゃんと醸し出しつつROっぽい物入れてみました(多分
決して自己満足じゃありませんよ^^;
補足すると深淵の騎士のお話です。