※手帳は何処にでも売っているような濃い茶褐色のカバーが付いている物。
循環透視図法
私はこれから手帳をつけようと思う。
別段日記とか毎日つけるようなそういう類のものではなくて。
何か、頭に浮かんだ……そう、実際に起こった事でも良いのです。
とりあえず、後で之を読む人が何かを感じ取ってくれれば良いのです。
それだけで、この薄暗い中、角灯を片手に書き続けている意義が生まれるというものです。
しかし、話は簡潔に、かつ繊細に脳裏に映写されるものを文字にしなければならない。
そう、きっかけは彼女の存在についてから始めるとしましょう。
例えば……あ、いや。私は名前を知らないのだから仮にAとおくとしましょうか。
しかし、今日の所はその顔と声だけしか知らないので、彼女についてはこれ以上は書くことは無いでしょう。
あとは、これから先は、私が自身の狂気に脅えずに過ごせるようにしなければならない……。
それが無理かどうかは、最後のページに書き記しておくとしましょう。
角灯の灯火が弱弱しく泣いている、じきに消えるならその前に意識を瞼の裏側に貼り付けておかなければならない。
闇の中で意識が残ると言うのは以ての外なのだから。
仮に意識が残ったなら、忽ち眼球は剥離し、豪雨の中腐植土の上を転がり始めるでしょう。
盲目の私に、どうしてそれが追いかけられるだろうか？
そんな馬鹿げた事ができ……（多分角灯の炎が途絶えたのであろう、残り白紙には薄く引っかくような筆跡があるだけだ）
（薄く青み掛かった文字でページの下に付け加え）兎にも角にも。初日から貴方が壊れてしまわない事を切に祈っています。
肉の撓る音と共に赤ワインの入った皮袋は破裂し、下品な音と共に地面に滴り落ちた。
飛び散る飛沫が目前で止まり、私の目線はその合間を掻い潜り、そして槍を水平に構えている彼女の顔を射定めた。
同時に、頬を擦る矛先の音が耳に障り、瞬き一つの間に私の体は大きく伸びきった彼女の腕の下にあった。
指先に力を込めて、大きく腰を回転させる。
金属質の重い炸裂音と刃物が肉にめり込む音、そして折れた骨が内臓に刺さり、苦悶の表情で呻く声。
それだけを耳に入れた私は体を反転させ首を薙いだ。
細い糸を切るような音が小さく鳴った。本物の赤い血飛沫の中、肉塊は湿りのある床に衝突し拉げた音を立てた。
両腕には赤いワインと赤い鮮血が掛かっていた……指紋の隙間から這い上がる汗は心臓の鼓動に合わせて溢れ出ているようだった。
落ち着くことのない呼吸は、目尻から出た涙が頬を伝っている事に気がつかずに、重い頭を支えるだけで精一杯であった。
震える剣先を何とか抑制しながら、初めて感じた殺意の感触を繰り返し吟味した。
右耳は抉れ、血が滴り落ちていた。潰れた耳からは壊れた雲の音が常に鳴り響き、左耳からは悲鳴を蹂躙するような足音が聞こえる。
（ここで紙に書かれたその筆跡は大きく歪み、欄外にまで脱線し、頁の角には小さな溝跡が残っていた。
インクを赤色に変えたのか……だが入れすぎたインクを零しながら再び殴り書きのような文字で次の言葉が書かれていた）
まだ筆を握る事ができる間に書いておきたい事は多々ありますが、この手帳が途中で途切れてしまうのは自明の理です。
よって、これから先は必要以外の事は書かないことにするつもりです。
新しく発見した事柄を簡潔に纏めるなら、これを循環透視図法を呼ぶことにす……。
（ここで先ほどから多少は付着していた赤い斑点が一気に肥大化し、文字の部分を多い尽くしている。
文字が掻き消えてしまった部分を除いて、次の文字が読めるところだけを抜粋するとしよう）
……のでしょう、察しのとおり今私が使っているのはアリザリンを混合したインクでは無く、人体の体内に含まれ……。
だから、私は待つことにする、例え幾年の歳月が過ぎたとしても。
……雨が騒がしくなってきたようです、赤い文字が透明な水と共に、そして私の概念すら掻き消してしまいそうな
慟哭……天が割れるような雷鳴が……流されてしまうのかもしれません。
（上記と同じように再び付け加え、ただし再びインクの色は黒に戻っていた）
つまり、雨とアリザリンの関係は解明不可能な事では無く、身近にそれも内面に存在するもの。
（それから数枚白紙が続く）
……つまり、彼女は笑ったような仕草を行っただけであって、私はただそれを見たような気がしただけであった。
皮膚は甘皮のように微小な指先の力で破れ、中からは蠢く蛆が這い出してきた。
指先に付着したそれを口に含むと、鉄と塩の味が微かにした。
あの……腐敗した老木を踏み抜く音が足元から聞こえ、私の爪先は彼女の右足を砕いていた。
予想以上に軟らかくなった骨の周りの肉は、煮込みすぎた肉のそれと同じであった
━━臭いは別物だが、そのときの私は不思議とそれが感じられなかった。
何度雨に、風に、嵐に打たれたのかわからないその体は、今なお原型を留めている事ですら脅威であった。
時折腹部が不自然に蠢き、中に蟲が大量に湧いている事を暗示していた。
想像するだけで愛おしいくなり、狂った右腕は毒牙を持った蛇のように彼女の腹部にめり込んでしまった。
案の定、突っ込んだ腕と破れかかった薄皮の境界線からは小さく白い蟲と黒く曇った血の塊が這い出してきた。
酷く握り締めた拳は冷えた汚水━━それも微生物が蔓延しているような━━に浸しているようだった。
このまま内臓を、腸と肝臓を鷲掴みにして引きずり出したい。
いや、出きるならもっと早い時期に中身を全部抉り出して剥製……ミイラにするべきだったのかもしれない。
腐り果てた臓器は茶褐色に染まり、表面を覆っている粘度の濃い液体は薄暗く差し込む光によって微妙な光沢を魅せていた。
一時期循環透視図法に魅せられてしまい、冒頭のAについての話を等閑にしていました。
再び、Aについての話に戻して行きたいと思いますが、今日も薄く曇った空は深く沈んでいるようです。
手帳が濡れ……（文字が滲み解読不能、多分野外でこれを書いていたのだろう）
……最悪な雨、お陰で手帳に水滴が付いてしまった。
滲んだ部分は特に重要ではないので、それほど問題はありませんが。
どうやら雨は私の考えの範疇を超え、もはや無視出来るような存在では無くなってきたようです。
今日はAと雨がとても深い関係にあるということが判明しました。
実際赤色はAとは深い関係ではなく、雨との関係が強いようなのです。
人気の無い、山間の小さな小屋……とは言っても此処にそれが存在する事ですらにわかに信じがたい。
だが、それはそこに存在し、今私はその中にいるのだ。
一歩踏み出すごとに腐食した床は歪み、その足から伝わる感触は歩くたびに不快感を募らせた。
ここに初めて訪れる者がいたならば、床、柱、そして屋根の腐食など気にもかけないだろう。
正確に言えば、気にかけられないのだ。そう、私の目の前に置いてある分厚い一本の大木から切り出した机の上に乗っている……。
彼女の死体を見れば、その……肉が削ぎ落とされ、落下し、黒く濁り、皮膚に小さな羽根蟲を飼っている彼女を見れば、
恐らくそれ以上一歩も踏み出すこと無く踵を返すだろう。
当然、彼女がそうなるように仕組んだ私を除いてだが。
さて……久しぶり、実に二週間ぶりの対面だ。この前会った時よりも幾らか虫の数が減っているようだ。
私は薄汚い手帳を取り出してその姿を模写する。
手帳は膨大に書き込まれたインクの厚さ、紙に付いた皺で初日よりも厚みを増していた。
震えるペン先が、今にも風化しそうな手帳と擦れ合って、手帳から何枚かが胞子のように床に落下した。
幸いにもそれは丁度真ん中の……今から半年前の記録の部分であった。
肝心な最初と最後は破れていなかったのだ。
では、詳しくAについて書くことしましょう。
彼女は、今腐った廃屋の中で、その部屋には似つかわしくない、
豚などの家畜を解体するための大きな机の上でこの手帳を書き綴っています。
少なくとも、この手帳を現在書いている彼女Aとは私の事でしょう。
ここでこの手帳を読んでくださっている貴方を混乱させるようですが、今机の上には腐乱死体が一つ転がっています。
あと半年もすれば白く染まりそうなそれはAなのです。
この手帳を記しているのはAであり、その前で寝転がっているのもAであり、血まみれになって朽ち果てたのもAであり。
今呼吸を行い、空を見上げているのもAであり……（以下頁の終わりまで様々な場面の映写が書き綴られている）
（最後の頁は最初の頁に使われていたインクと同じ色を使っていた、多分これを書いたのはAである）
Aは最初から存在していたのかどうか、それは確実に存在していたのです。
狂気に押しつぶされる可能性は、限りなく高かったのです。
腐敗と雨との関係が結ばれるなら、Aは私では無くなります。
なぜ冒頭からAと書いているのか、それはすでに腐敗と雨との関係を見つけてしまったからです。
この手帳（最初と最後の頁）を書いている頃の私は既に単一の個体ではなくなってしまっていたのです。
私の内なる人格は分裂し、微生物のように繁殖していきました。
私のすべてを持つAは増え続けます。その状況でどうやって私は自我を保てると言うのでしょうか。
もはや、自分がレプリカでは無くオリジナルだと言い張る自信もありません。
ただこのまま雨の打ちつける音を聴きながら身を腐らせていきたいと願うだけです。
（内容はそこで途切れているが、新たに誰かが書き記したと思われるものが下に続いている）
自らを証明出来る者が果たして何人いるのでしょうか？
確かに増えすぎた私たちとは比べ物にならない境遇でしょうが、基本的には同じ機構の中に埋まっているのです。
この腐乱死体の模写も合計で五十七体に上りました。
……当然その中には貴方も含まれています。
多分、私が殺した全ての中にオリジナルも含まれていたのでしょうが、
今となってしまってはオリジナルとレプリカの違いなんて些細なものに成り下がっています。
つまり、私を含む五十八人のAと定義される人物は小規模な生物の循環を繰り返していただけであって、
決して異常な存在というわけでは無いのです。
ただオリジナルの貴方と別の貴方が同時に存在を許されただけのこと。
いや、もしかしたら他の、私たちA以外の人たちも本当は分裂し、増殖しているのかもしれません。
こうして手帳に書き記している私と同じように、残りの人も自らが残るために他の全てを押し潰し腐敗させているのかもしれません。
そう考えると、貴方の狂気も些細なものだったのかもしれません。
……目の前に転がっている腐った肉三十七キログラム（内臓や骨なども含む）が完全に腐敗すれば、私はAではなくなるのでしょう。
蟲達が食事を終える前に、この肉を模写しておかなければならないのですが、この手帳も既に書く場所がありません。
……ようやく雨が降り始めました、晴れた日は実に半年ぶりくらいでしょうか。
そういえば、異常な体の分裂は、私達だけのものではないようです。
この、今手帳を記しているこの場所で、乾燥した空気が腐敗臭を含み、室内に蔓延します。
私はどうしても耐えられなくなって、小屋の外に出るのですが、
渓谷からこちらにむかって流れ込む空気もまた、独特の臭みをもった、日ごろ水に漬けられて腐敗していく肉の臭いがするのです。
臭うのです、崩れ落ちた歯肉や、蟲の蠢く大腸が……。
やはり崩れ落ちた眼球は腐った畦道を転がり落ちていきました。
世界中が腐り落ちて壊死する前に、それを流し落としてくれる雨が降ることを願います。
そう、循環透視図法と雨とは密接な関係。
それが無ければ、私は私を確立できたでしょうし、このような手帳を見つけることも、そして書き加える事もしなかったでしょう。
本当は腐敗の過程に雨は不必要なのかもしれません。だけど、そのことはあまり問題にならないのです。
なぜなら死と腐敗は直結しないのだから、腐敗から引き起こるのは死では無く消滅に位置します。
つまり、対称的に存在するものは死を迎えても尚、その存在を失う事が無いのです。
それに腐敗を施せば、対称性は一瞬でその均衡を失い、この世界から消えてしまうのです。
……残りあとわずかになりました。
果たして朽ちたのは私なのか、それとも私なのか。
それはわかりませんが、結局私が一人だけ残るのならそれが本当の私なのでしょう。
さて……これが最後の一行です……。
（赤く染まった部分は血糊だろうか、あと何文字か書かれているようだが、それを読むことは不可能なようだ。
ただ……何が書かれていてもそれは問題ではないのです。書かれていたという事実があれば……。）
全部読み終わった私は手帳を静かに閉じた。
小さく蟲の鳴く声と共に赤い血糊が零れ落ち、指の間に挟まった。
それが赤い羽根蟲に見えた私は狼狽し、思わず後ずさりをする。
分厚い靴の踵は小さな白い石のようなものを深く踏みつけるが、それは軟らかく砂のように溶けてしまった。
白く残った粉末は腐食した床に吸い込まれた。
開いた窓からは独特の異臭が漂っている、ただそれはこの部屋の臭いでは無い。
あとがき。
なし！